5-2-25 弱虫のライオン2
杏子が部屋を出てから、しばらくの時間が過ぎていた。
浴場から戻ってきた聖奈と愛蓮は、火照った頬を涼しい夜風にさらしながら部屋の扉を開ける。湯上がりの二人は浴衣姿に着替え、濡れた髪をタオルで拭いていた。
部屋へ入るなり、聖奈は辺りを見渡した。
「杏子は?」
荷物の置かれた机へ視線を向けながら尋ねると、壁際に立て掛けられた獅子の剣が、鈍い輝きを帯びて静かに答えた。
「外へ行った。ビールを買いにだそうだ」
「まあ、杏子らしいね」
聖奈は苦笑を浮かべる。
その笑みはいつもの柔らかなものだったが、どこか無理に作ったようなぎこちなさも滲んでいた。
獅子の剣は、その表情を静かに見つめるように沈黙を保っていた。
やがて、低く落ち着いた声が部屋に響く。
「聖奈、少し話がある」
思いがけない呼び掛けに、聖奈は目を丸くした。
「私に?」
問い返しながら椅子へ腰を下ろし、自然と姿勢を正す。
隣では愛蓮も黙って座り、二人とも剣へ視線を向けた。
獅子の剣は静かに言葉を選ぶように間を置いてから口を開く。
「杏子が、これからの戦いに必要だとして神代の遺物を探し始めた時、お前はその計画に賛成したはずだ。だが、なぜ今になって彼女に任せきりにしている?」
その問い掛けに、聖奈は言葉を失った。
視線がゆっくりと畳へ落ち、小さく息を吐く。
「……だって、私は……」
唇が震え、言葉が途切れる。
「結局、何もできないままだからね。戦う覚悟も中途半端だし、誰かに頼ってばかりで……」
最後の方は、自分へ言い聞かせるような小さな声だった。
その姿を見つめながら、獅子の剣は穏やかな口調で語り始める。
「聖奈。お前が今、これほど迷っているのは、本気で未来を守りたいと思っているからだ」
その一言に、聖奈はゆっくりと顔を上げた。
「それ自体が、すでに稀有なことなのだ。誰もが未来のために悩み、覚悟を決められるわけではない」
聖奈の表情から作り笑いが消えていく。
その瞳には、自分の心を見透かされたような驚きと戸惑いが浮かんでいた。
獅子の剣は続ける。
「だがな、聖奈。完璧である必要はない」
「誰にも将来を見通すことなどできぬ。失敗することもあるだろう」
静かな声には、不思議と人を責める響きがなかった。
「それでも、その失敗から学び、立ち上がって歩み続けることこそ、本当の強さなのだ」
部屋は静まり返っていた。
窓の外から聞こえる虫の声だけが、ゆっくりと流れる時間を刻んでいる。
聖奈は俯き、膝の上で拳を固く握り締めた。
「もし、お前が恐れず一歩を踏み出せるなら、その姿を見て、他の者もきっとついてくる。
だからこそ、自分の不安や弱さを否定せず、すべて受け入れるのだ。
それができた時、本当の勇気が湧いてくる」
その言葉が胸へ届いた瞬間だった。
ぽたり、と一筋の涙が畳へ落ちる。
「……私……弱い……」
絞り出すような声だった。
その隣にいた愛蓮は何も言わず、そっと聖奈の肩を抱き寄せる。
聖奈は抵抗することもなく、その温もりへ静かに身を預けた。
「いいんですよ、聖奈さん」
愛蓮は優しく微笑む。
「泣いても、迷っても。それでも前に進もうとするなら、私はいつでも力を貸します」
聖奈は涙を拭いながら、一度だけ大きく頷いた。
しばらく静かな時間が流れる。
やがて愛蓮は、獅子の剣へ穏やかな眼差しを向けた。
「素敵な言葉ですね……あなたが?」
獅子の剣は、すぐには答えなかった。
刀身を包む淡い光が静かに揺らぐ。
それは遠い過去を思い返しているようでもあり、かつての記憶を慈しんでいるようでもあった。
やがて低く、それでいてどこか誇らしさを滲ませた声が響く。
「英雄ミラベラ・スカーレット──ミーナの言葉だ」
その名に、聖奈は涙の残る目を見開いた。
「ミーナさんって……あの戦ってばかりの人でしょ? そんな優しいことを言うなんて、意外……」
再び短い沈黙が訪れる。
「彼女ほど仲間思いで、勇気のある女性はいなかった」
獅子の剣の声は、どこか懐かしさを帯びていた。
「確かに戦いの多い人生を送った。だが、それは戦うためではない。
仲間を守り、未来を切り開くためだったのだ」
その言葉は、まるで遠い時代から今へ届けられた祈りのように、静かに部屋へ満ちていく。
聖奈はゆっくりと拳を握り直した。
泣き腫らした目のまま獅子の剣を見つめ、小さく、それでも確かな声で呟く。
「私も……少しずつでもいいから、未来を守れる自分になりたい」
獅子の剣は何も答えなかった。
ただ、その刀身は静かに輝き続けていた。
それは、新たな主の小さな決意を、かつての英雄へ報告するようでもあり、その歩みを静かに祝福しているようでもあった。
愛蓮はそっと聖奈の隣に寄り添い続ける。
その夜、小さな旅館の一室には、言葉を交わさなくとも伝わる静かな温もりが満ちていた。
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