5-2-24 弱虫のライオン1
小さな旅館の一室で、杏子は窓辺の安楽椅子に身を預けていた。
室内は簡素な造りで、必要最低限の調度品が並ぶだけだ。窓の外には、復興支援のため各地から集まったボランティアたちの姿が見える。旅館の敷地内に設けられた炊き出し場では、湯気を立てる大鍋を囲みながら、多くの人が慌ただしく立ち働いていた。
その光景をぼんやりと眺めながら、杏子はすでに動きやすい室内着へ着替え、椅子にもたれかかっていた。
やがて部屋の引き戸が静かに開く。
戻ってきたのは聖奈と愛蓮だった。
二人とも外での作業を終えたばかりで、汗を流した後のような清々しい表情を浮かべている。疲労は隠せないはずなのに、それ以上に誰かの役に立てたという充実感が、その表情には滲んでいた。
「杏子、もう部屋にいたの?」
聖奈が少し驚いたように声を掛ける。
杏子は視線だけを向け、軽く肩をすくめるだけだった。
「いっぱい汗かいちゃったから、私たち先にお風呂に行ってくるね」
そう言って聖奈は愛蓮を誘い、二人は浴場へ向かっていく。
戸が閉まり、足音が遠ざかると、部屋には再び静寂が戻った。
杏子はゆっくりと身体を起こし、壁に立て掛けられた獅子の剣へ視線を向ける。
「ねえ、どう思う?」
問い掛けに、獅子の剣は少し間を置いて答えた。
「何がだ?」
杏子は小さく息を吐き、抑えていた苛立ちを隠そうともせず口を開く。
「あの弱虫ライオンのことよ。戦うべきときに戦わず、偽善的なボランティア活動で自分を満たして、使命から目を背けてる。どう見ても現実逃避じゃない」
部屋に短い沈黙が落ちる。
やがて獅子の剣は静かに口を開いた。
「……その言葉は、本人には言わないでくれ」
その声音には咎める響きよりも、どこか庇うような色が混じっていた。
「じゃあ、あんたが何とかしなさいよ」
杏子は冷たく言い放つと、立ち上がる。
「どこへ行く?」
「ビールでも買ってくるわ」
それだけ告げると、杏子は振り返ることなく部屋を後にした。
静かに戸が閉まり、その音だけが部屋へ小さく響く。
⸻
しばらくして、浴場から戻った聖奈と愛蓮が部屋へ入ってきた。
二人とも浴衣姿に着替え、少し濡れた髪をタオルで拭いている。湯上がりの温かな空気が、部屋の中へふわりと流れ込んだ。
「杏子は?」
聖奈が部屋を見渡して尋ねる。
「さっき出ていった」
獅子の剣が静かに答えた。
「どこに?」
愛蓮が首を傾げる。
「ビールを買いに行くと言っていたが……少し時間が掛かっているようだな」
剣はわずかに案じるような口調でそう付け加えた。
「本当にもう……杏子ったら勝手なんだから」
聖奈は苦笑しながら布団へ腰を下ろす。
「でも、今日もいっぱい頑張ったね。明日もきっと忙しくなるよ」
今日一日の出来事を思い返しながら、聖奈は穏やかな声で話し始めた。
しかし、その隣に座る愛蓮は終始口数が少ない。
視線は畳へ落ちたままで、聖奈の話にも相槌を打つだけだった。
その様子には、何か考え込んでいるような迷いが見え隠れしている。
それでも聖奈は気付かない。
あるいは、自分自身のことで精一杯で、気付く余裕がなかったのかもしれない。
その時だった。
「聖奈、少し話がある」
不意に獅子の剣が静かな声で呼び掛けた。
聖奈は首を傾げながら姿勢を正し、畳の上へ正座する。
「どうしたの? 何かあった?」
獅子の剣は少し間を置き、重々しく答えた。
「使命のことだ。少し耳を傾けてほしい」
部屋の空気が、わずかに張り詰めた。
先ほどまでの穏やかな旅館の一室は、いつの間にか、誰も逃れることのできない現実と向き合うための場所へと変わり始めていた。
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