5-2-23 島根の傷痕
聖奈、愛蓮、杏子の三人は、豪雨災害に見舞われた島根県を訪れていた。
災害発生直後は救助活動が最優先となり、被災地への立ち入りは厳しく制限されていた。しかし、復旧作業が進み、各地でボランティアの受け入れが始まったことで、彼女たちもようやく現地へ足を運ぶことができたのである。
道路脇には積み上げられた災害ごみが並び、泥をかぶった家々には復旧作業の跡が残る。日常を取り戻そうと懸命に働く人々の姿が、町のあちこちで見られた。
「よし、今日は瓦礫の片付けを手伝おう」
聖奈は明るく声を上げながら軍手をはめ、現場を取りまとめる責任者へ挨拶に向かった。
隣では愛蓮も作業服姿で準備を整え、手際よく資材を運び始める。
彼女たちは神域を巡るという使命を背負っている。しかし、その力は人を救うためにあるという信念は変わらない。だからこそ、こうした現場では魔法遺物の探索よりも、目の前で助けを必要とする人々に手を差し伸べることを優先していた。
「聖奈さん、次の班はどこに行けばいいですか?」
「愛蓮、こっちだよ。この瓦礫を片付けたら、次は仮設住宅の設営を手伝うらしいわ」
二人は休む間もなく現場を動き回りながら、それでも笑顔を絶やさず、疲れた表情を浮かべる被災者へ明るく声を掛け続けていた。
その姿を遠くに見ながら、杏子だけは一人、別の目的のために行動していた。
彼女は斐伊川の周辺を何度も歩き回り、豪雨災害の裏に潜む異変の痕跡を探していた。
「やっぱり……ここもね」
杏子は濡れた土の上へ静かに膝をつき、手のひらを地面へ当てる。
雨はすでに上がり、地面も乾き始めている。それでも彼女には、大地へ深く染み込んだ魔力の残滓がはっきりと感じ取れた。
「これほどの大規模な魔法……なのに、魔力源になるものが見当たらないなんて」
独り言のように呟いたその時、背負ったバッグの奥から低い声が響いた。
「すでに封印されたのかもしれんぞ」
声の主は異世界の魔法デバイス《獅子の剣》。
紆余曲折を経て、今は杏子がその所有者となっていた。
「それくらい私だって考えてるわ」
杏子は軽く毒づきながらも、視線をゆっくりと川面へ向ける。
「だとしても、どうしてこんな中途半端な状態なのかしら。痕跡だけが残って、本体は消えているなんて……。川底に沈んでる? それとも流されたのかもしれないわね」
少し考え込むと、彼女はすぐに結論を出した。
「よし、下流へ向かいましょう」
そう言うなり踵を返し、杏子は斐伊川に沿って宍道湖を目指した。
—-
宍道湖へ着いた杏子は、湖岸に立って静かな水面を見つめた。
青く広がる湖は穏やかな風を受け、小さな波紋を繰り返している。その景色だけを見れば、つい先日まで甚大な豪雨災害に襲われていたとは、とても信じられなかった。
杏子は湖岸を歩きながら魔力を探った。
しかし、期待していたような反応はどこにもない。
湖面には静かなさざ波が広がるばかりで、探していた魔法遺物の気配は完全に途絶えていた。
「ダメね。これだけ探しても、何も見つからない」
小さく息を吐いた、その時だった。
「……しかし、この場所には微かに気配が残っている」
獅子の剣が静かに口を開く。
杏子は眉を寄せた。
「気配?」
「ああ。一度会えば忘れようがないほど強烈な存在だ──神がいたようだ」
その一言に、杏子の目が静かに見開かれる。
「やっぱり……そうだったのね」
脳裏に浮かんだのは、富士山で遭遇したあの女神。
人間とも魔法使いとも異なる、理そのものが形を持ったかのような圧倒的存在だった。
「あの豪雨を引き起こした何かの背後には、神の力が関わっていた……間違いないわ」
湖の静寂を背に、杏子は歩き出す。
その瞬間、背中のバッグから再び低い声が響いた。
「待て、杏子。どこへ行くつもりだ」
その声音には、静かな警戒が滲んでいた。
「決まってるじゃない。この辺りで神が現れそうな場所を探すのよ」
杏子は肩をすくめるように答える。
「誘い出すつもりか」
「ええ、そうよ」
短い返答に、獅子の剣は深く息を吐くような音を漏らした。
「無策に挑発する気か。戦うつもりなら、聖奈たちと相談するべきだ」
「聖奈?」
杏子は足を止め、振り返ることもなく薄く笑った。
「あの子に戦う気なんてないのは見て分かるでしょ。自分と向き合うことから逃げてる。
しばらくはボランティアのママごとでもさせておけばいいわ」
「杏子……忘れるな」
獅子の剣の声には、明確な警告が宿っていた。
「私の力は、お前だけのものではない。聖奈にも受け継がれている。その存在を軽んじるのは愚かなことだ」
杏子は一瞬だけ眉をひそめる。
しかし次の瞬間には、その表情を焦燥が塗り替えていた。
「もし魔法遺物が誰かに持ち去られていたら? 悠長にしている間にも、次の異変が起きるかもしれないのよ!」
その言葉には、未来を知る者だからこその切迫感が滲んでいた。
一方、獅子の剣は最後まで冷静さを崩さない。
「確かに一理ある。だが、お前一人に全てを背負わせるわけにはいかん。焦りだけで動けば、取り返しのつかぬ結果を招く」
二人の考えは最後まで交わらなかった。
やがて杏子は諦めたように長く息を吐き、小さく肩を落とす。
「分かったわよ。仕方ないから、一旦宿へ戻るわ」
そう言いながら踵を返したものの、その足取りには拭い切れない未練が残っていた。
夕暮れの陽光が湖面を赤く染め、長く伸びた杏子の影が静かな岸辺を覆っていく。
「でも、獅子の剣……忘れないで」
歩みを止めることなく、杏子は静かに呟く。
「この戦いの先に待っているのは、平和なんかじゃないわ。もっと厳しい現実よ」
獅子の剣は何も答えなかった。
宍道湖を渡る風だけが静かに吹き抜け、その沈黙を受け止めていた。
杏子は胸の奥で燃え続ける焦燥を押し込めながら、宿への道を歩き続ける。
その炎は消えたのではない。ただ、次に燃え上がる時を待つように、静かに内へと潜んでいた。
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