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5-2-22 鹿鳴の鈴

鎧姿の老戦士が放った、ただ一声。


その瞬間、それまで張り詰めていた空気が嘘のように静まり返った。


燃え盛っていた原始林の炎も、老戦士がゆっくりと一歩を踏み出すたび、不思議なほど勢いを失っていく。火は風に押し返されるように弱まり、轟々と鳴り響いていた炎の音さえ次第に遠のいていった。


その堂々たる姿を目にしたアメノカクは、先ほどまでの狂気が嘘のように消え失せ、怯えた様子で深く頭を垂れた。


小夜はその光景を見つめながら、この老戦士が尋常ならざる存在であることを悟る。


そして、アメノカクがこれほどまでに畏怖を示す相手は、一柱しか思い浮かばなかった。


「まさか、あなたは……軍神タケミカヅチ様……?」


その名を口にすると、老戦士は静かに小夜へ視線を向けた。


その眼差しには戦場を幾度も越えてきた者だけが持つ厳しさと、それでもなお人を見守る温かさが同居していた。


「そうだ。娘よ、そなたの戦いは最後まで見届けさせてもらった」


小夜は息を呑み、慌てて片膝をついて頭を垂れる。


「恐れ多いことでございます……。ご無礼を、どうかお許しください」


一方、アメノカクは悔しさを押し殺せず、顔を上げた。


「我が主人。この者は不届きな人間です。神聖な勝負を装い、我を愚弄いたしました。その無礼を正そうとしたまで──」


しかし、タケミカヅチは静かに首を振る。


「すべてを見ていたぞ、白鹿よ」


それだけで、アメノカクは言葉を失った。


「お前が勝負の約束を破り、怒りにまかせて森を燃やしたこともな」


アメノカクは耳を伏せ、気まずそうに目を逸らした。


言い返そうとして口を開きかけるが、結局何も言えず、そのまま俯く。


タケミカヅチは静かに歩み寄ると、鹿の首元に掛かった鈴へ手を伸ばえた。


「勝負とは神聖なものだ。その約束は、神であろうと違えてはならぬ」


そう告げると、タケミカヅチは鈴を外し、今度は小夜へ向き直る。


「この鈴は、約束を果たした者へ授けよう」


思いも寄らぬ言葉に、小夜は目を丸くした。


「……え?」


「だが、その前に一つだけ頼みがある」


小夜は反射的に背筋を伸ばす。


「もちろんです! 私にできることでしたら、何でもお申し付けください!」


その返答に、タケミカヅチはどこか満足そうに目を細めた。


「ならば、その力を借りよう」


そう言って静かに小夜の前へ歩み寄ると、片手をその頭上へ掲げた。


「その身を通じて、大地の命を呼び覚ませ」


低く響く声とともに、神気が小夜へと流れ込む。


次の瞬間、《磨羯の籠手》が眩い光を放った。


大地へ干渉する魔法が、神の力によって極限まで引き出されていく。


小夜の足元から波紋のように魔力が広がり、黒く焼けた地面へ静かに染み渡った。


裂けた樹皮が閉じ、焦土となった幹から若葉が芽吹く。


灰となった草原には緑が戻り、失われた花々が季節を巻き戻すかのように次々と咲き始めた。


千年の時を重ねた春日山原始林が、まるで長い眠りから目覚めるように生命を取り戻していく。


「これ……私が……?」


呆然と呟く小夜へ、タケミカヅチは静かに頷く。


「そなたの大地を愛する力を増幅した」


軍神は再生した森を見渡した。


「元よりこの原始林は植生の均衡が崩れ始めておった。おかげで植え替えの手間が省けたわい」


冗談とも本気ともつかない一言に、小夜は思わず苦笑した。


タケミカヅチは手の中の鈴を小夜へ差し出す。


「これは『鹿鳴の鈴』。雷神の加護を宿す神器である」


小夜は両手で丁重に受け取った。


掌へ伝わる鈴の温もりは、先ほどまでとはまるで違って感じられた。


「そなたに預けよう」


一拍置いて、タケミカヅチは静かに続ける。


「いつの日か、我に士官したくなったなら、再びこの地を訪れるがよい」


そう言い残すと、タケミカヅチは倒れたアメノカクを軽々と担ぎ上げる。


アメノカクは恥じ入ったように俯いたまま、一言も発しなかった。


やがて神の姿は、再生した森の奥へ静かに溶け込むように消えていった。


しばらく呆然と立ち尽くしていた小夜の背後から、聞き慣れた声が響く。


「小夜! こんなところにいたのね!」


「一晩中帰ってこないから、心配したんだよ!」


振り返ると、月奈と美玲が息を切らせながら駆け寄ってくる。


月奈は汗だくの小夜を見るなり、少し怒ったように眉を寄せた。


「何があったの? そんなに泥だらけになって……。火事でもあったの?」


その隣で、美玲は小夜の手に握られた鈴へ鋭い視線を向ける。


「ちょっと待って。それ……もう手に入れたの? 今回の任務って、そんなに簡単だったわけ?」


その問いに、小夜は顔を見合わせるように二人を眺めたあと、思わず吹き出した。


「簡単どころか……めちゃくちゃ大変だったんだってば」


話そうとしても、昨夜の出来事はあまりにも現実離れしていて、どこから説明すればいいのか分からない。


結局、小夜は困ったように笑うことしかできなかった。


夜明けの光を浴びた春日山原始林は、何事もなかったかのように静かな風に葉を揺らしている。


神々の気配もまた森へ溶け込み、その夜に交わされた約束だけが、誰にも知られることなく神域へ残された


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