5-1-5 小夜2
小夜が株式投資を始めたのは、ほんの軽い気持ちだった。
資金洗浄の手続き代行を続けるうちに、送金額をほんのわずかだけ調整し、その差額を自分名義の投資口座へ移すようになっていた。
最初は数千円程度だった。
誰にも気づかれない範囲で資金を積み立て、その中だけで運用する。
父親が投資で全財産を失った日のことは、今でも鮮明に覚えている。
だからこそ、小夜は心に決めていた。
(絶対に同じ失敗はしない)
一攫千金を狙うつもりはない。
企業の業績や市場の動きを調べ、根拠を積み重ねた上で判断する。
利益は小さくても構わない。着実に増やしていけば、それで十分だと思っていた。
その予想は、驚くほどよく当たった。
分析した企業の株価は堅実に値を上げ、投資額は少しずつ増えていく。
利益が出るたびに嬉しかった。
それ以上に、自分の分析が間違っていなかったことが何よりの自信になった。
(やっぱり、この考え方で合ってる)
一度そう思い始めると、次の投資も、その次の投資も、自分の判断を信じるようになる。
利益が積み重なるにつれ、投資額も少しずつ大きくなっていった。
やがて、小夜は値動きの大きな銘柄にも手を伸ばすようになる。
急騰の兆しを見つければ迷わず買い、材料が尽きる前に売り抜ける。手元の資金が足りなくなると、送金額をさらにわずかだけ調整して補填した。
最初は罪悪感に胸が痛んだ。
だが、「次で利益を出して戻せばいい」と考えるようになってからは、その葛藤も少しずつ薄れていく。
気づけば、小夜の生活は株価を中心に回るようになっていた。朝は市場が開く前にニュースを確認し、昼は値動きを追い、夜は決算資料や経済指標に目を通す。
眠る直前までチャートを眺める日も珍しくない。勝てば安堵し、下がれば落ち着かない。
いつしか株価の上下が、そのまま自分の感情を左右するようになっていた。
そんなある日の夕方だった。
机の上に置いてあったスマホが静かに鳴る。
画面に表示された名前を見て、小夜は思わず目を見開いた。
父。
久しく連絡を取っていなかった父親からの着信だった。
「もしもし?」
電話に出ると、聞こえてきた声は以前よりもずっと弱々しかった。
「小夜……頼む。お金を返してくれ……」
その一言に、小夜は眉をひそめる。
「どういうこと? お金を返せって……」
問い返した、その瞬間だった。
受話器の向こうで何かがぶつかる音が響き、父の声が途切れる。
代わって聞こえてきたのは、低く押し殺した男の声だった。
「掠め取った金を、今すぐ全額返してもらおうか」
小夜は頭の中が真っ白になった。
なぜ知っている。
誰が話した。
「……何の話ですか」
とっさにそう答えていた。
「とぼけるな」
男は鼻で笑う。
「送金額を少しずつ減らして、自分の口座へ流してたよな」
背筋が凍った。
「あの金は組織の金だ。勝手に手を付けていい金じゃねえ。返さねえと、お前の両親に何が起きるか分からんぞ」
父と母が危ない。
その事実だけが、小夜の胸を強く締めつけた。
「そんな……お金は……」
喉が渇き、声にならない。
資金はほとんど株へ回してしまっている。
すぐに現金を用意できる額ではない。
それでも、両親を見捨てるという選択肢はなかった。
「……分かりました。今から行きます」
震える声でそう答えると、小夜は通話を切った。
机の上には、開いたままの株価チャートが映し出されている。
その画面を見つめることもなく、小夜は最低限の荷物だけを鞄へ詰め込み、実家へ向かった。
—-
夜の静寂に包まれた実家は、どこか重苦しい空気に支配されていた。
玄関へ駆けつけた小夜は、扉を開けた瞬間に違和感を覚える。
靴が無造作に散らばり、室内はひどく荒れていた。
嫌な予感が胸をよぎる。
「お父さん……!」
居間へ飛び込むと、父は部屋の隅へ座らされていた。
額には傷があり、頬も赤く腫れている。
それでも小夜の姿を見ると、小さく安堵したように目を細めた。
しかし、その前には数人の大柄な男たちが立ちはだかっていた。
母の姿は見えない。
逃げられたのか、それとも別の部屋にいるのか。
やがて、一人の男がゆっくりと歩み出る。
「ようやく来たな」
男は小夜を値踏みするように眺め、不敵な笑みを浮かべた。
「大事な金を返してもらおうか」
小夜は唇を強く噛み締める。
「……今は、用意できません」
株へ回した資金は、すぐに現金化できる状態ではない。
(そんなこと正直に言えるわけがない!)
男は鼻で笑った。
「用意できない?」
一歩。
また一歩。
男が距離を詰めるたび、小夜は思わず後ずさる。
しかし、男の向こうには父がいる。
逃げることもできない。
「だったら、どうやって責任を取る?」
低い声が胸の奥まで響いた。
喉が渇く。
息が浅くなる。
心臓だけが、耳の奥でうるさいほど鳴り続けていた。
何か言わなければ。
そう思うのに、言葉が出てこない。
男がゆっくりと腕を伸ばす。
その手が自分へ届く。
そう思った瞬間、全身が恐怖で強張り、一歩も動けなくなった。
その時だった。
ポケットの中で、スマホが激しく震えた。
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