5-2-20 磨羯の覚醒1
アメノカクは寝床で浅い眠りについていた。
だが、不意に森を揺るがすざわめきが静寂を切り裂く。枝葉が激しく鳴り、獣たちの鳴き声が四方から重なり合う。その音に耳を震わせ、鹿はゆっくりと目を開いた。
「……何事だ」
身を起こしたアメノカクは、森の空気が普段とはまるで違うことに気付く。
春日山原始林そのものが、何かに呼応するように息づいていた。
風は絶え間なく木々を渡り、大地は静かな鼓動を刻んでいる。
その異変の意味を悟った瞬間、鹿の瞳が大きく見開かれた。
「……まさか!」
勝負の最中だったことを思い出す。
そして、自ら三十分の猶予を与え、そのまま眠り込んでしまったことにも。
「しまった!」
アメノカクは勢いよく跳び起きると、滝を目指して森を疾走した。
巨体とは思えぬ速度で木々の間を駆け抜けるたび、大地が震え、枝葉が大きく揺れる。
神鹿の疾走は、まるで一条の雷そのものだった。
やがて滝へ辿り着いた鹿は、その場で足を止める。
滝壺の前には、一人の少女が静かに立っていた。
小夜である。
滝を見つめるその背中は泥に汚れ、衣服には無数の擦り傷が残っている。それでも、確かに彼女は先に辿り着いていた。
「お前が……先に到着したというのか……!」
驚愕に染まる声を聞き、小夜はゆっくりと振り返る。
疲労は隠せなかったが、その瞳だけはまっすぐだった。
「約束通り、私はここにいるわ」
その一言が、アメノカクの誇りを激しく揺さぶった。
鹿の瞳が赤く染まる。
「勝負は無効だ!」
怒声が森へ響き渡る。
「お前は何か卑怯な手を使ったに違いない!」
怒りのまま角を高く掲げる。
その瞬間、角から神々しい雷光が迸った。
「来るぞ、小夜!」
ストラグレイブの警告が飛ぶ。
小夜は反射的に腕を突き出した。
呼応するように大地が隆起し、厚い土壁となって雷撃を受け止める。
轟音とともに土塊が砕け散り、火花が夜空へ舞い上がった。
「そんな……いきなり攻撃してくるなんて!」
しかし、アメノカクは止まらない。
怒りに支配された瞳から理性は失われ、全身の毛は逆立ち、角から溢れる神気が制御を失い始めていた。
「愚かな人間よ!」
雷鳴が轟く。
「貴様のような存在が、この森へ足を踏み入れること自体が許されぬ!」
次々と放たれる雷は狙いを失い、木々へ、岩へ、大地へと無差別に降り注ぐ。
轟音が連続し、巨木が裂け、火の粉が夜の森へ散った。
「あっ……!」
小夜の息が止まる。
燃え上がる炎は瞬く間に下草を包み、逃げ惑う鹿や鳥、小さな獣たちが闇へ駆けていく。
ここは誰よりもアメノカクが守ろうとしていた森ではなかったのか。
「やめて!」
小夜は叫ぶ。
「あなたが守るべき森を、自分の手で壊してどうするの!」
だが、その声は怒りに閉ざされた耳へ届かない。
「黙れ!」
再び雷光が迸る。
「この森を汚す者を排除することこそ、我が使命だ!」
炎はさらに広がっていく。
春日山原始林──千年以上もの歳月をかけ、人の手を遠ざけることで守り継がれてきた神域が、今まさに焼かれようとしていた。
「もう……やめて……」
小夜は立ち尽くした。
ストラグレイブが静かに告げる。
「小夜。このままでは春日山原始林が失われる」
「……」
「神はそれを問題としないかもしれん。だが、人間のお前は違う」
小夜は唇を強く噛み締めた。
「止めないと。でも……どうやって……?」
「戦うしかない」
その一言が胸の奥へ深く沈んだ。
小夜はこれまで何度も話し合おうとした。
説得しようとした。
争わずに済む道を探し続けた。
だが今、燃え盛る森が、その願いはもう届かないのだと突き付けている。
樹齢を重ねた巨木が雷に裂かれ、燃え移った炎が下草を呑み込んでいく。
この森にしか息づかない草花を焼き、そこを棲み処としてきた小さな命までも容赦なく奪っていく。
神に仕えるはずの神獣が、その神域さえ顧みず怒りに任せて雷を振るっている。
そのすべてを見つめ、小夜は静かに拳を握り締めた。
「……もう迷っている時間はない」
震えていた声が止まる。
「この森を守るために──私は、あいつを倒す!」
その瞳に、炎が映った。
ストラグレイブは静かに応える。
「覚悟が決まったな。それでいい」
小夜は拳を握る。
不思議だった。
恐怖は消えていない。それでも身体は自然と前へ出ようとしている。
炎が揺れ、雷光が夜空を裂く。
その中心で白い鹿を見据える小夜の姿は、もはや先ほどまでの彼女ではなかった。
「気合い入れて行くわよ」
火と雷が渦巻く春日山原始林。
その神域で、小夜と神鹿の決戦が幕を開けた。
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