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5-2-18 原始林を駆け抜けろ1

深夜。月明かりに照らされた春日大社の御本殿前で、小夜はアメノカクと静かに向き合っていた。


互いに譲れないものを懸けた勝負。その始まりの場所として選ばれたのが、この神前だった。


夜気の中に浮かび上がる白い毛並みは神々しいほどに美しく、その首に下がる鈴は、わずかな身じろぎにも澄んだ音を響かせる。


その音色が、小夜の胸の鼓動をいっそう早めていた。


「震えているな。そんなに怖いのか?」


アメノカクが冷ややかに言い放つ。


小夜は唇を噛み、小さく首を振った。


恐怖に屈したくはない。だが、体の震えだけはどうしても止められなかった。


その様子を見たアメノカクは鼻を鳴らし、どこか愉快そうに目を細める。


「仕方がない。貴様には三十分の猶予をくれてやろう。その間にどれだけ先へ進めるか、見せてもらう」


そう言うと、鹿は小夜へ完全に背を向け、その場へゆったりと身を伏せた。


追いかける気配すらない。


圧倒的な余裕だった。


「ありがとうございます」


小夜は震える声で礼を述べると、大きく息を吸い込み、そのまま森へ駆け出した。


滝へ向かう道は二つあった。


北側の遊歩道と南側の遊歩道。


どちらも歩きやすく整備されているが、その分、大きく迂回する。


小夜は腕時計へ視線を落とし、迷っている時間はないと判断した。


選んだのは、遊歩道を離れ、春日山原始林を一直線に突き抜ける最短ルートだった。


「この道なら……滝まで一番近いはず……!」


木々の間を縫うように駆け抜ける。


最初のうちは方向も掴めていた。


だが、森の奥へ踏み込むにつれ、密集した木々が月明かりを遮り、視界は急速に狭まっていく。


足元には木の根が這い、濡れた落ち葉が滑る。


風が枝を揺らし、その音が四方八方から押し寄せるたび、自分がどちらを向いているのかさえ曖昧になっていった。


その頃。


アメノカクは御本殿近くで静かに鈴を鳴らしていた。


鈴は主人タケミカヅチより賜った神具。


その音は、人の感覚へ直接干渉し、現と幻の境界を容易く書き換える。


「不届き者が……少し痛い目を見てもらおう」


鹿が静かに息を吐く。


本来ならば、ただ帰すだけでよかったのかもしれない。


だが、異世界の剣を巡る騒ぎに巻き込まれ、あまつさえ主人の贈り物まで求める人間を前にして、アメノカクの心には苛立ちが残っていた。


鈴が澄んだ音色を響かせた瞬間、その力は夜の森へ溶け込んでいった。


小夜は足を止めた。


景色が、妙だった。


目の前の大木。


曲がった根。


岩に絡みつく蔦。


どこか見覚えがある。


見回せば、落ち葉の散らばり方まで同じように思えた。


「……さっき、ここを通った?」


胸の奥が冷たくなる。


気のせいだと思い直し、小夜は進路を変えた。


今度は尾根沿いを進む。


これなら間違えない。


そう信じて走り続けた。


だが十分ほど駆けた頃、不意に目の前へ現れたのは、先ほどと同じ曲がった大木だった。


「え……?」


息が止まる。


あり得ない。


慌てて別の方向へ向かう。


今度は谷を避け、木々の隙間を縫うように走る。


それでも。


目の前に現れたのは、やはり同じ景色だった。


「どうして……? おかしい!」


焦りが呼吸を乱す。


冷静さが少しずつ削られていく。


どれほど方向を変えても、森はまるで意思を持つ迷路のように、小夜を同じ場所へ引き戻していた。


その様子を鈴越しに見届けながら、アメノカクは静かに鼻を鳴らす。


「愚かな人間よ。これが神の力だ。夜明けまで森を彷徨い、自らの無力さを思い知るがよい」


その声は嘲笑というより、揺るぎない事実を告げる宣告だった。


小夜はなおも走り続けた。


だが景色は変わらない。


滝の音は聞こえず、月の位置さえ当てにならなくなっていた。


森そのものが、自分を拒んでいる。


そんな錯覚すら覚える。


「ストラグレイブ……私たち、今どこにいるの……?」


必死に呼びかける。


しかし返事はない。


いつも冷静に分析を返してくれる相棒は、まるで何かに遮られたように沈黙したままだった。


その静けさが、小夜の不安を何倍にも膨らませる。


「どうして……どうしてこんなことに……!」


走る。


転ぶ。


立ち上がる。


また走る。


膝をつくたび、湿った苔が服を濡らし、泥が靴へまとわりつく。


汗ばんだ額へ夜風が吹きつけるたび、熱を奪われ、指先の感覚まで鈍っていった。


どれほど時間が流れたのか。


小夜は息を切らしながら顔を上げる。


そして凍りついた。


目の前にあったのは──


曲がった木の根。


苔むした岩。


落ち葉の散らばる地面。


最初に迷い込んだ、あの場所だった。


「……嘘でしょ」


声が震える。


「ここ……最初の場所……?」


全身から力が抜けた。


滝どころではない。


出口すら見つけられない。


神域は、自分を完全に閉じ込めてしまったのだ。


その頃、アメノカクは草むらへ身を横たえ、静かに目を閉じていた。


「二度と、そこから出られまいよ」


鈴が一度だけ、小さく鳴る。


その声が本当に聞こえたのか、それとも幻だったのか、小夜にはもう分からなかった。


現と幻の境界は、とっくに溶け合っていたのである。


小夜はその場へ膝を抱えて座り込み、静かに頭を垂れた。


夜の森はどこまでも深く、黒く、彼女を包み込んでいく。


耳を澄ませても、目指すはずだった滝の音だけは、最後まで聞こえてこなかった。

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