5-2-13 春日山の神域
春日山の原始林は朝露に濡れ、ひんやりとした静寂に包まれていた。
梢を揺らす風の音と、小鳥のさえずりだけが森に響いている。
その中を、小夜は足音を忍ばせながら慎重に進んでいた。
昨日の出来事が、どうしても頭から離れなかった。
父親には「神社に興味を持つなんて珍しいな」と笑って送り出されたが、今日ここへ来た理由は観光ではない。
「……ここだよね」
昨日見つけた巨岩の前で足を止める。
苔むした岩は昨日と何も変わらない。
それなのに、森全体がその岩を中心に息を潜めているような、不思議な圧迫感だけは変わらず漂っていた。
「何がそんなに気になったの?」
小夜はスマホを取り出し、ストラグレイブを起動する。
昨日から彼の様子は明らかにおかしかった。
理由も告げず、この場所から離れようとしたことが、かえって気になって仕方がなかった。
「調査を続行する」
返ってきた声は低く、どこか張り詰めていた。
ストラグレイブは分析モードへ移行し、静かに岩と周囲の空間をスキャンし始める。
小夜はその様子を見守っていたが、普段なら逐一報告してくれる分析結果がまったく流れてこない。
妙な沈黙だけが続いていた。
やがて長い時間が過ぎ、小夜は耐えきれず口を開く。
「……何かわかった?」
しばらくして、ようやくストラグレイブが答えた。
「……やはり間違いない」
「何が?」
問い返しても、それ以上は続かなかった。
分析だけが続く。
「ちょっと待って。何を隠してるの? 私にもデータを見せて」
小夜は少し強い口調になる。
しかしストラグレイブは静かに答えた。
「……今は話せない」
それだけだった。
その声音には珍しく迷いが滲んでいた。
調査を終え、森を引き返そうとした、その時だった。
──チリン。
澄んだ鈴の音が、森の奥から聞こえた。
風に揺れた音ではない。
一定の間隔で、少しずつ近づいてくる。
「……この音」
振り向いた小夜は思わず息を呑んだ。
一頭の白鹿が立っていた。
雪のように白い毛並み。
透き通るような瞳。
首元には小さな鈴飾りが結ばれ、歩くたび澄んだ音色を響かせている。
その姿は神秘的でありながら、どこか人を寄せ付けない厳しさを纏っていた。
「……まずい」
ストラグレイブが低く呟く。
「神の使いだ」
普段の彼からは考えられないほど緊張した声だった。
「え?」
「説明は後だ」
短く言うと、続けて命じる。
「追え」
白鹿はこちらを一度だけ見つめると、何かを確かめたように静かに歩き始めた。
まるで追って来ることを最初から知っているかのようだった。
小夜はその後を追う。
「ストラグレイブ、どういうこと? この鹿が何を知ってるの?」
返事はない。
その沈黙が、かえって事態の深刻さを物語っていた。
やがて、白鹿は森の奥で足を止めた。
ゆっくりと振り返る。
その瞬間だった。
「この禁足地へ、異世界の野蛮な武器を持ち込んだのは、お前たちか」
低く澄んだ声が森へ響いた。
小夜は目を見開く。
「……しゃべった」
白鹿は微動だにしない。
ただ静かに小夜たちを見据えている。
小夜の手元で、ストラグレイブは小さく息を吐いた。
「誤解だ。私はこの世界のAIだ。《獅子の剣》を持ち込んだのは我らではない」
──獅子の剣?
小夜は一瞬だけ眉をひそめる。
聞いたことのない名だったが、今それを問い返せる空気ではない。
白鹿は目を細める。
その沈黙は、相手の言葉を吟味しているようでもあり、裁いているようでもあった。
「ならば、なぜ禁足地へ入り込み、好き勝手な振る舞いをしている」
声は静かだった。
だからこそ怒りが際立つ。
ストラグレイブは一瞬だけ言葉を失う。
「……調査だ」
ようやく答える。
「禁足地で異変が起きているなら、それは貴殿らにも及ぶ問題だと判断した」
「調査、か」
白鹿は鼻を鳴らした。
「お前たちの存在そのものが、この地を乱している。異世界の意志も、異世界の武器も、本来ここへ持ち込まれるべきものではない。
神域とは、人が踏み越えてはならぬ境界だ」
森が静まり返る。
ストラグレイブは何かを言い返そうとした。
だが、その言葉は喉元で止まる。
わずかな沈黙の後、彼は静かに答えた。
「……その指摘は、正しい」
その声には反論を諦めた者ではなく、事実を受け入れた者だけが持つ重さがあった。
小夜は思わずストラグレイブを見つめる。
彼がここまで譲歩する姿を、初めて見た。
白鹿は静かに頷く。
「この件は、我が主へ報告する」
その一言だけで空気が変わった。
「我が主って……」
小夜が呟くより早く、ストラグレイブが低く答える。
「……タケミカヅチだ」
その名が森へ落ちる。
白鹿はそれ以上何も言わず、木々の間へ姿を消した。
鈴の音だけが遠ざかり、やがて森は元の静寂を取り戻す。
しばらく誰も口を開かなかった。
小夜はようやく息を吐く。
「タケミカヅチって……本当に神様なの?」
「疑う余地はない」
ストラグレイブは静かに答えた。
「少なくとも、この国ではな」
その声には、いつもの冷静さの奥に、隠し切れない緊張が残っていた。
小夜はもう一度、白鹿が消えた森の奥を見つめる。
春日山は相変わらず静かだった。
だがその静けさは、何もないからではない。
何かがそこに在り続けているからこその静寂なのだと、小夜は初めて理解した。
二人は言葉少なに森を後にする。
背後には、誰かの視線だけがいつまでも残っているような気がした。
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