5-2-12 奈良春日大社
島根から無事に戻った月奈たちへ、葉山は感謝の意を込めてまとまった報酬と休暇を与えた。
危険な任務へ送り出したことを心から悔いている──そんな思いは、言葉以上に彼の態度から伝わってきたと美玲は振り返る。
「まあ、あれだけ謝られたらね。私は旅行でもして、美味しいもの食べてくるわ。ホスト通いは、もうこりごり」
肩の力が抜けたように笑う美玲を見て、月奈も穏やかな表情を浮かべた。
「私は家族サービスかな。こういう時くらい、お母さんたちにも喜んでもらわないと」
「小夜は?」
美玲に尋ねられ、小夜は少し考えてから答えた。
「久しぶりに奈良へ行こうと思う。祖父母の家。ちょうど良い機会だし」
大学を中退した頃は、両親との関係もぎくしゃくしていた。
だが今では少しずつ会話も増え、以前のような息苦しさは薄れている。祖父母の家へ家族で帰ることにも、もう抵抗はなかった。
—-
奈良へ着くと、祖父母は久しぶりに訪ねてきた孫を心から歓迎してくれた。
年季の入った木造の家には、畳や柱へ染み込んだ木の香りが漂い、時間だけがゆっくり流れているようだった。
食卓には小夜の好物が並び、祖母は「痩せたんじゃないか」と何度も料理を勧めてくる。
そんな何気ないやり取りが、不思議と心地よかった。
翌朝、祖父が新聞を畳みながら声を掛ける。
「ちょうど良い時に帰ってきたな。今年も春日さんの万燈籠があるぞ」
三千を超える燈籠へ火が灯される、春日大社の伝統行事。
小夜はせっかくだからと、昼のうちから境内を歩くことにした。
朱塗りの回廊を抜けると、境内には無数の石燈籠と釣燈籠が静かに並んでいた。
長い年月を重ねた石肌には苔が付き、それぞれが違う時代を生きてきたことを物語っている。
観光客の足音さえ自然と小さくなるような、張り詰めすぎない、それでいて凛とした空気が辺りを満たしていた。
鹿が一頭、小夜のすぐ横をゆっくりと歩いていく。
「この子たち、やっぱり神様の使いなんだよね」
そう呟くと、ポケットの中からストラグレイブが静かに答えた。
「その通りだ。タケミカヅチが白鹿に乗ってこの地へ現れたという伝承は、今もここに息づいている」
鹿は人を恐れる様子もなく、小夜の手元へ顔を寄せる。
優しく頭を撫でると、穏やかな瞳を向けたまま、また静かに歩き去っていった。
「本当に昔から、人と一緒に暮らしてきたんだね」
その姿を見送りながら、小夜は小さく微笑んだ。
続いて訪れた国宝殿では、奉納された甲冑や刀剣、鏡、工芸品が静かに展示されていた。
どれも美術品であると同時に、長い信仰の歴史を背負ってきた品々だった。
その中で、小夜の足が自然と止まる。
『春日権現験記絵』
神々が人の前へ姿を現し、人々を導き、時には救う。
そんな数々の出来事を描いた国宝の絵巻だった。
小夜はガラス越しに絵巻を見つめる。
そこに描かれているのは昔話ではない。
神と人が同じ世界を歩いていた時代の記録。
そんな感覚が、不思議と胸へ染み込んできた。
「この絵巻……ただ伝説を描いただけじゃない気がする」
小さく漏らした言葉へ、ストラグレイブが静かに応じる。
「……神代の記憶だ」
いつもの分析口調ではなかった。
「信仰とは記録でもある。人は語り継ぎ、絵へ残し、神はそれを通して存在を繋いできた」
わずかな沈黙。
「そして、ごく稀にだが……本物の痕跡だけは、時を越えて残る」
小夜はもう一度、絵巻へ目を向けた。
細く繊細な線で描かれた神々の姿は、千年近い時を隔てているにもかかわらず、不思議なほど生き生きとして見えた。
自分たちが追っている神域も、こうした記憶の延長線上にあるのかもしれない。
そんな思いが胸をよぎる。
夕刻になると、境内の三千を超える燈籠へ一つずつ火が灯され始めた。
朱塗りの回廊を包む柔らかな灯火は、昼間とはまるで違う世界を作り出している。
風が吹くたび、小さな炎が揺れる。
その無数の光は競い合うことなく、静かに寄り添いながら闇を照らしていた。
「幻想的だね……」
思わず漏れた小夜の声に、ストラグレイブも静かに応じる。
「数千の祈りが、一つの光景となって積み重なっている」
少し間を置き、さらに続けた。
「この国の神々は、人を支配するためではなく、人の営みと共に記憶されてきたようだ」
その言葉を聞きながら、小夜は灯火を見つめ続ける。
島根で見た荒れ狂う神話とはまるで違う。
同じ神代の名残でありながら、ここには穏やかな時間が流れていた。
燈籠行事を後にした帰り道だった。
春日山原始林の方角へ視線を向けたまま、ストラグレイブが不意に口を開く。
「……少し寄り道しても構わないか」
その声音は、これまでになく硬かった。
遊歩道を外れ、人の気配が消えた森の奥へ進む。
やがて苔むした巨大な岩の前で、ストラグレイブは息を呑むように沈黙した。
「……まさか」
その声には、初めて聞くほどの動揺が滲んでいた。
「獅子が……ここにいるというのか……」
「何が起きてるの?」
小夜が問い掛けても、返事はない。
長い沈黙の末、ようやく絞り出すように答えた。
「……今は、まだ何も分からない」
その言葉だけを残し、ストラグレイブは珍しく急ぐようにその場を離れようとした。
帰り道、小夜は何度か背後を振り返った。
誰もいない。
それでも森の奥から、何かが静かにこちらを見守っているような気配だけが、いつまでも消えなかった。
「奈良は……静かなだけの場所じゃないんだね」
その呟きにも、ストラグレイブは最後まで答えなかった。
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