5-2-11 不承の取引
葉山が浅草の桟橋へ到着すると、川面に揺れる一艘の屋形船が、闇に浮かぶ提灯の灯りにぼんやりと照らされていた。
船内からは酒宴の賑わいが漏れ聞こえ、笑い声と三味線の音色が夜の隅田川へ溶けていく。
既にフェルナンデスが来ているのだろう。
葉山は無言のまま船へ乗り込み、靴を脱いで静かに座敷へ足を踏み入れた。
部屋ではフェルナンデスが芸者に酒を注がせながら、上機嫌で談笑していた。
その所作には一切の遠慮がない。
まるでこの屋形船も、この夜も、自分のためだけに用意された舞台であるかのようだった。
葉山に気付くと、フェルナンデスは楽しげに目を細めた。
「久しぶりだな、葉山君」
しかし、人払いをする気配はまるでない。
葉山は短く息を吐き、無言で芸者へ視線を向ける。
その視線だけで十分だった。
芸者は一瞬だけ空気の変化を察すると、小さく頭を下げ、静かに部屋を後にする。
襖が閉まる音とともに、室内には二人だけが残った。
「……ご無沙汰しております」
葉山は丁寧に頭を下げる。
礼節は崩さない。
だが、その眼差しだけは冷え切っていた。
「まあまあ、そんなに硬くなるな。もっとリラックスしてくれたまえ」
フェルナンデスは笑いながら杯を傾ける。
葉山は内心の苛立ちを押し殺し、その場へ静かに腰を下ろした。
「ご依頼の件ですが……」
切り出した途端、フェルナンデスは杯を置き、楽しげに口を開く。
「ニュースを見たよ。島根は大変だったようだね」
その一言に、葉山の表情がわずかに曇った。
あの豪雨は偶然ではない。
フェルナンデスの依頼で回収した魔法遺物が引き金となり、多くの人々が災害へ巻き込まれた。
それを知っているはずの男が、まるで世間話でもするように口にしたのである。
「……危険な仕事でした」
葉山は感情を押し殺し、低く答える。
「そうだろうね。うん、危険手当を上乗せしておこう。感謝しているよ」
返ってきたのは、あまりにも軽い言葉だった。
その口調には罪悪感も驚きもない。
人命さえ、採算の一項目でしかないようだった。
葉山の拳が、畳の上でわずかに震える。
(……これはビジネスだ。感情を持ち込む話じゃない)
自らへそう言い聞かせると、懐から小さな木箱を取り出した。
「これが……『蛇滅の勾玉』です」
箱を差し出す手に、わずかに力がこもる。
月奈たちは命を懸け、この勾玉を持ち帰った。
多くの人々が災害に巻き込まれ、その果てにようやく手にしたものだ。
それを自分は、報酬と引き換えに依頼人へ渡そうとしている。
(……だが、依頼は依頼だ)
何度言い聞かせても、その言葉は自分自身を納得させてはくれなかった。
葉山は何も言わず、箱を差し出した。
フェルナンデスは箱を受け取ると、ゆっくりと蓋を開く。
勾玉を見つめるその瞳が、獲物を前にした猛禽のように細められた。
「オゥ! 大蛇の刻印が入っているぞ。素晴らしい」
満足そうに頷くと、葉山へ視線を向ける。
「君のチームは優秀だ。いつも期待以上の結果を出してくれる」
称賛の言葉だった。
だが、そこに人への敬意はない。
高性能な道具へ向ける評価と、何ら変わらない響きだった。
葉山は黙って頭を下げる。
箱を閉じる小さな音が、妙に耳へ残った。
これで依頼は完了した。
それなのに、胸の奥の違和感だけは、少しも消えない。
船を降りると、隅田川を渡る夜風が静かに頬を撫でた。
提灯の灯りを背に歩きながらも、葉山の足取りは重い。
フェルナンデスは、本当にあの勾玉だけを求めていたのか。
その疑問は、夜の川面へ消えることなく、静かに心の底へ沈んでいった。
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