5-2-10 蛇滅の勾玉
ヤマタノオロチ最後の核が爆散すると、それまで天地を揺るがしていた濁流は嘘のように勢いを失っていった。
荒れ狂っていた宍道湖は静かさを取り戻し、降り続いていた豪雨も、いつしか小雨へと変わっている。厚い雲の切れ間から淡い光が差し込み、水面には穏やかなさざ波だけが広がっていた。
月奈は水面へ膝をつき、ゆっくりと息を吐く。
全身から力が抜けていく。
覚醒によって解き放った力はあまりにも大きく、その反動は肉体ではなく精神へと押し寄せていた。反射フィールドは消えたはずなのに、世界の境界だけがまだ揺らいで見える。
濡れた前髪が頬に張り付き、荒い呼吸だけが静かな湖面へ響く。
自分が自分でなくなっていくような感覚に、月奈はかろうじて意識を繋ぎ止めていた。
深く息を整えようとした、その時だった。
隣に、誰かがいる。
そんな気配を感じて、月奈はゆっくりと顔を上げた。
「まさか、本当に退治してしまうとはな」
静かな声だった。
だが、不思議と湖全体へ響くような深みがある。
月奈が驚いて振り向くと、そこには「雨壺」で出会った、髪も髭も伸び放題の男が座っていた。
白い衣はずぶ濡れのままなのに、どこか気にも留めていない様子だった。
粗野な身なりは相変わらずだった。
それなのに、水面へ胡坐をかいているという一点だけが、その男を常識の外へ追いやっている。
「……え?」
月奈は思わず目を瞬かせた。
「あなたは……あの時の?」
男は答える代わりに、小さく笑みを浮かべた。
そして月奈の額へ静かに手をかざした。
荒れ狂っていた魔力が、凪いだ湖面のようにゆっくりと静まっていく。乱れていた思考も次第に澄み渡り、暴走しかけていた意識が、ようやく自分の内側へ戻ってきた。
「少しは楽になっただろう」
男は何事もなかったように言うと、静かな湖面へ目を向ける。
「かつて、ヤマタノオロチを退治したのは、この俺だ」
その言葉に、月奈の鼓動が止まりかけた。
意味を理解するまで、一瞬の空白が生まれる。
神話。
八岐大蛇。
草薙の剣。
頭の中で断片的な知識が次々と結びつき、目の前の男へと収束していく。
「もしかして、あなたは……」
男は口元だけで笑った。
「俺はスサノオ。人はそう呼んでいる」
その名を聞いた瞬間、月奈は息を呑んだ。
教科書にも載る神話の神。
その存在が、今こうして目の前で胡坐をかいている。
現実とは思えない光景だった。
「勾玉を渡せ」
スサノオは短くそう言って手を差し出した。
月奈は一瞬だけ首をかしげる。
もう封印の役目は終えたはずの勾玉だ。今さら何に使うというのだろう。
そう思いながらも、月奈はポケットから勾玉を取り出し、素直にその手へ渡した。
スサノオはそれを受け取ると、掌の上へ浮かせる。
ゆっくりと手をかざした瞬間、勾玉が淡く輝き始めた。
それに呼応するように、宍道湖の水面が静かに渦を巻く。
渦は次第に黒く染まり、禍々しい気配を帯びながら勾玉へ吸い寄せられていく。
まるで、この土地に残っていた最後の穢れを回収するかのようだった。
やがて湖面は再び静まり返る。
「これでよし」
スサノオが呟く。
勾玉の表面には、黒い紋章が静かに浮かび上がっていた。
それは、八つ首の大蛇を象ったような紋様だった。
スサノオは勾玉を月奈へ放り投げる。
「ほら、これはくれてやる」
思わず受け止めた月奈は、驚いた表情を浮かべる。
「こんな危険なもの……私が持っていて、本当に大丈夫なんですか?」
スサノオは鼻で笑うように肩をすくめた。
「そいつの本当の名は『蛇滅の勾玉』だ」
そう言って月奈を真っ直ぐ見据える。
「お前たちのおかげで、ようやく完全な姿に戻った。もうヤマタノオロチが復活することはない」
その口調には、一切の迷いがなかった。
月奈は勾玉を両手で包み込む。
先ほどまで禍々しかった赤黒い輝きは消え、掌には不思議な温もりだけが残っていた。
その温かさが、張り詰めていた心をゆっくりと解きほぐしていく。
「……ありがとうございます」
月奈が頭を下げる。
しかし、顔を上げた時には、もうそこにスサノオの姿はなかった。
まるで最初から誰もいなかったかのように。
残されていたのは、静まり返った宍道湖だけだった。
月奈はしばらくその場所を見つめ、小さく息を吐いた。
その時、カールスティールが静かに語りかける。
「……この国には、実に気まぐれな守護者がいるのだな」
その一言だけが、妙におかしく感じられる。
厚い雲がゆっくりと割れ、差し込んだ陽光が宍道湖の水面を黄金色へ染めていく。
先ほどまで牙を剥いていた濁流は跡形もなく消え、湖は何事もなかったかのような穏やかさを取り戻していた。
月奈は右腕の巨蟹の腕輪へそっと手を添える。
「帰ろう」
誰に言うでもないその一言を残し、彼女は静かな湖畔を歩き始めた。
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