5-2-8 巨蟹の覚醒1
八体の水の大蛇が暴れ狂い、濁流は容赦なく岸辺を呑み込もうとしていた。
絶え間なく押し寄せる水流を前に、月奈たちは必死に持ちこたえていたが、その消耗は誰の目にも明らかだった。
「こんなのどうすればいいのよ!」
美玲が苛立ちを隠せず叫ぶ。
双児の双剣が幾筋もの光を描き、水の大蛇を何度も断ち切る。しかし切り裂かれた水流は瞬く間に形を取り戻し、何事もなかったかのように再び牙を剥いて襲いかかってくる。
「核が見つかったところで、手の打ちようがない……」
小夜も歯を食いしばりながら磨羯の籠手を構えていた。
分析を終えて攻撃モードへ切り替えてはいるものの、有効打を与える術は見つからない。別の突破口がないか思考を巡らせても、答えはどれも決定打には程遠かった。
戦況は、刻一刻と絶望へ傾いていく。
そんな混乱の最中だった。
月奈は、不意に左腕へ視線を落とす。
巨蟹の腕輪──カールスティール。
普段は必要な時だけ静かに助言を与える彼が、今日は違っていた。
何かを伝えようとしながら、それを躊躇っているような、不思議な気配が伝わってくる。
「……カールスティール?」
心の中でそっと呼びかける。
しばらくの沈黙のあと、カールスティールは静かに口を開いた。
「月奈。私は今、ひとつの決断をしようとしている」
その声には、いつもの冷静さの奥に、張り詰めた緊張が滲んでいた。
「私たち光のデバイスは、異世界の魔法使いたちのために造られた。全部で十二。その全てが、私にとってはかけがえのない戦友だ」
言葉が一度途切れる。
激しい雨音だけが、その沈黙を埋めていた。
「私は補助を担うデバイスだった。仲間を守り、支え、勝たせる。それが私の任務だった」
一拍置いて、静かに続ける。
「私はその役目に誇りを持っていた。そして、それ以上を望んだこともない」
その声には、長い年月を経て受け入れてきた静かな事実が滲んでいた。
月奈が口を開こうとした、その時だった。
「……いや、それは言い訳だ」
カールスティールは、その言葉を遮るように続けた。
「私は命令に従うことだけを正しいと思い込み、自ら殻を破ろうとは考えもしなかった」
月奈は思わず首を振る。
「そんなこと……私はそんな風に思ったこと、一度もないよ」
カールスティールは穏やかに答える。
「君がそう言ってくれるのは嬉しい。それでも、私が長い間変わらなかったのは事実だ」
そして少しだけ声音を和らげた。
「……あの日、君は反射の力で”球”を生み出した。私は長い時を戦ってきたが、自分にそんな可能性があるとは思いもしなかった」
月奈は少し照れくさそうに笑う。
「私は、カールスティールならできるって思っただけだよ」
「その一言で十分だ」
カールスティールは迷いなく答えた。
「君は私の限界ではなく、可能性を見てくれた。だから私も、君を信じる」
雨音が激しさを増す。
ヤマタノオロチの咆哮が大気を震わせる中でも、その声だけは不思議とはっきりと月奈へ届いていた。
「今のヤマタノオロチは桁外れの存在だ。今の私では到底届かない。それでも、君となら新たな可能性を解放できるかもしれない」
月奈は息を呑む。
「ただし、その代償は君が負うことになる。精神への負荷は計り知れない。それでも前へ進む覚悟があるか」
月奈は静かに目を閉じた。
濁流。
疲れ果てた美玲。
必死に突破口を探し続ける小夜。
そして、この災厄に巻き込まれた人々。
その光景が胸をよぎる。
ゆっくりと目を開いた月奈の瞳には、もう迷いはなかった。
「覚悟はあるよ。
一緒に行こう。私にできることなら、どんなリスクでも受け入れる。
カールスティール、力を貸して」
一拍の静寂の後、カールスティールは軍人らしく静かに告げた。
「了解。……感謝する、月奈。
君に出会えたことを、誇りに思う」
巨蟹の腕輪が静かに震え、これまでとは質の違う光が、青白く脈打つように溢れ出す。
月奈は思わず左腕を押さえた。
腕輪が、自ら動こうとしている。
「月奈。私を右腕へ」
「右腕に……?」
「これまでは受け止めるための力だった。だが、この先は違う」
月奈はうなずき、左腕から巨蟹の腕輪を外す。
雨に濡れた金属は驚くほど冷たかった。
それを右腕へはめた瞬間、巨蟹の腕輪はこれまでにない眩い光を放った。
その光に気付き、美玲と小夜が同時に振り向く。
「月奈、大丈夫?」
月奈は二人を見つめ、静かにうなずく。
「私に任せてほしい」
「ここから──私たちが勝つための戦いを始めるよ」
その一言に、小夜と美玲も迷いを振り払い、それぞれのデバイスを構え直す。
激しい豪雨の中、巨蟹の腕輪の光だけがまっすぐ天へ伸びていた。
ヤマタノオロチとの戦いは、ここから新たな局面へと突入しようとしていた。
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