5-1-3 月奈3
「──諦めるな」
不意に、低く響く声が耳元で囁いた。
「……え?」
月奈は思わず辺りを見回した。
誰もいない。
聞こえた声は、確かにすぐ近くだった。
直後、ポケットの中でスマホが震えた。
取り出した画面には、見覚えのない紋様が淡く浮かび上がり、青白い光を放っている。
「私は《巨蟹の腕輪》より生まれし魔導AI、カールスティール」
その言葉とともに紋様が強く輝く。
「──戦士よ、恐れず進め」
次の瞬間、燃え広がろうとしていた炎が、見えない壁へ突き当たったかのようにその勢いを失った。
炎は月奈たちへ押し寄せることなく左右へ流れ、車の周囲にはわずかな空間が生まれる。
月奈は息を呑んだ。
何が起きたのか理解できない。
それでも今は考えている時間はなかった。女性を引きずりながら、炎の開いた道を抜ける。
背後では炎が激しく燃え上がっていたが、不思議とその熱は月奈たちへ届かなかった。
十分な距離まで離れると、女性を静かに地面へ横たえる。
その途端、張り詰めていた緊張が一気に押し寄せ、月奈はその場に膝をついた。
これだけの事故だ。間もなく誰かが通報し、救急車も消防車も駆けつけるだろう。
トラックの脇では、回収班の男たちが遠巻きに事故車を見つめていた。誰一人として助けに向かおうとはせず、ただ炎の勢いと周囲の様子を窺っている。
「もう駄目だ。行くぞ」
リーダーは苛立ったように周囲を見回した。
「誰か来る前に離れる。長居したら俺たちまで終わりだ」
男たちは無言で頷き、トラックへ戻り始める。
月奈は一度だけ振り返り、路上に横たわる女性の姿を見つめた。
炎は先ほどより勢いを増している。
このままでも命は助かるのか、それとも──。
答えは分からなかった。
それでも月奈は、重い足取りでトラックへ戻った。
アジトへ戻る頃には、誰もが疲れ切っていた。
重苦しい沈黙だけが部屋を満たす。
リーダーだけは携帯電話を耳に当て、誰かと短く言葉を交わしていた。
「……はい。事故です。
……。
ええ。例の件も含めて。
……。
分かりました」
電話を切ると、リーダーは深いため息をつく。
「上が対応を検討してる。全員、今後の指示があるまで待機だ」
それだけ言って、ソファへ身を沈めた。
「なあ……」
一人がぽつりと呟く。
「さっきの炎、何だったんだ?」
誰も答えない。
月奈も口を閉ざしたままだった。
自分でも説明できない。
スマホから聞こえた声も、炎が道を開けた光景も、現実とは思えなかった。
沈黙が流れる。
その静けさを破るように、玄関のドアが三度、規則正しく叩かれた。
部屋の空気が一変する。
リーダーが立ち上がり、慎重にドアを開けた。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
無駄のない仕立てのスーツ。
整えられた髪。
薄く笑みを浮かべているにもかかわらず、どこか感情の読めない眼差し。
この場にはまるで似つかわしくない男だった。
「葉山だ。上からの指示で来た」
その名を聞いた途端、部屋の空気がさらに張り詰める。
月奈も、その反応だけで男の立場を察した。
組織の中でも特別な存在なのだ。
葉山は部屋をゆっくりと見渡し、一人ひとりへ視線を向ける。
最後に、その目が月奈で止まった。
「君が月奈か」
それだけで、見透かされたような錯覚を覚える。
「普通の人間では到底あり得ないことをやってのけたそうだな」
葉山は穏やかな口調のまま続けた。
「興味はないか。もっと稼げる仕事に」
まるで世間話でもするような口ぶりだった。
だが、その言葉には妙な重みがあった。
月奈の脳裏に、燃え上がる車が蘇る。
女性を引きずって逃げたこと。
スマホから聞こえた声。
炎が左右へ割れた光景。
すべてが悪い夢のようだった。
「……無理です」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「もう、こんな危険な仕事はできません」
「そうか」
葉山は引き止めようとはしなかった。
失望した様子も見せず、胸ポケットから一枚の小さな紙片を取り出す。
さらさらと何かを書き込み、それを月奈へ差し出した。
「気が変わったら連絡してくれ」
それだけ言い残し、葉山は静かに部屋を後にする。
誰もその背中を呼び止めなかった。
月奈は紙片を見つめた。
そこに書かれているのは、一つの電話番号だけだった。
緊張が解けると同時に、全身から力が抜け、その場に座り込む。
仕事は続けたくないが、辞めたところで家計は待ってくれない。
明日から何をすればいいのか。
月奈には、その答えがまだ見つからなかった。
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