5-1-27 極秘の取引
葉山は静かに呼吸を整えながら、会員制料亭の一室で緊張を押し隠していた。
店は看板すら掲げていない、知る人ぞ知る隠れ家だった。古民家を改装した室内には木の香りがほのかに漂い、和紙越しの柔らかな灯りが静寂を包み込んでいる。
本来なら心を落ち着かせるはずの空間だったが、葉山の胸には終始、張り詰めた糸のような緊張が走っていた。
向かいでは、依頼人である外国人の男が、一切の無駄のない所作で料理を味わっている。
箸の扱いは熟練した日本人そのものだった。寿司を口へ運ぶ所作も、天ぷらに塩を添える手つきも自然で、繊細な味わいを静かに楽しんでいる。
その姿は、葉山がこれまで接してきた海外の要人や実業家とはどこか違っていた。
「美味だな、葉山君」
依頼人は箸を静かに置き、抹茶の香る湯飲みを手に取る。
「さすがは日本。素材と技、そのどちらも実に見事だ」
葉山は穏やかに微笑み返しながらも、その言葉の裏を探っていた。
元商社マンとして数え切れないほど接待の場を経験してきた彼は、人の心理を読むことには自信があった。
だが、目の前の男だけは別格だった。
流れるような物腰と柔らかな口調は相手の警戒を解きながら、その奥には決して底を見せない冷たさが潜んでいる。
笑顔で話していても、本心だけは決して悟らせない。
そんな得体の知れなさが、葉山の警戒心を少しも緩ませなかった。
やがて料理も一段落し、部屋に静かな間が訪れる。
その機を見計らって、葉山は足元に置いていた鞄へ手を伸ばした。
慎重に小箱を取り出し、両手で卓上へ差し出す。
「ミスター・フェルナンデス。こちらが約束の品です」
その言葉に、フェルナンデスは細く目を細めた。
やがて静かに拍手を送る。
「ブラボー、葉山君。さすがはノクターナルの腕利きだ」
葉山は礼だけを返し、相手の次の反応を待った。
フェルナンデスは小箱を手に取り、蓋をゆっくり開く。
中には、月奈たちが命懸けで持ち帰った《天狐の尾飾り》が収められていた。
白銀に輝く尾飾りは、狐の尾を思わせる優美な曲線を描き、静かな部屋の灯りを受けて神秘的な光を放っている。
それは誰の目にも、単なる装飾品ではないことが分かる存在だった。
フェルナンデスは尾飾りを指先でそっと持ち上げる。
細部まで眺めるその眼差しには好奇心と満足、そして研究者にも似た鋭さが宿っていた。
まるで、この遺物が秘める力を最初から知っていたかのようだった。
「素晴らしい。期待以上だよ」
尾飾りを箱へ戻しながら、満足げに頷く。
「これを確実に届けてくれた君のチームに感謝する」
その言葉には確かな満足が滲んでいた。
しかし葉山は、それを額面通り受け取るほど楽観的ではない。
一拍置き、相手の表情を窺いながら静かに口を開く。
「……あなたの指示で集めた三人ですが」
フェルナンデスは小さく肩をすくめ、穏やかな笑みを浮かべた。
「見出したのは君だよ」
その言葉には一切の迷いがない。
「私は少し情報を提供したに過ぎない。人材を見極め、まとめ上げたのは君だ」
そこで一度言葉を切り、意味ありげに葉山を見つめる。
「正真正銘、君のチームだよ」
その一言は賞賛のようにも、責任を委ねる宣告のようにも聞こえた。
フェルナンデスは再び柔らかな笑みを浮かべる。
「次もよろしく頼む」
やはり──。
葉山は内心だけで小さく息をついた。
これで終わる依頼ではないことは、最初から覚悟していた。
「……次、ですか」
慎重に言葉を選びながら問い返す。
「今回の件については報告を受けています。次も同程度の危険を伴う任務と考えるべきでしょうか」
フェルナンデスは否定も肯定もせず、小さく肩をすくめた。
その曖昧さが、かえって葉山の警戒心を強める。
「いや、そんなに危険なものではないよ」
穏やかな口調だった。
だが、その口元には不敵な笑みが浮かんでいる。
葉山はその笑みを見た瞬間、「危険ではない」という言葉を信じる気が失せた。
この男にとっての「危険ではない」が、自分たちにとっても同じ意味とは限らない。
「次はね──」
フェルナンデスは一拍置き、葉山を真っ直ぐ見据えた。
静まり返った部屋に、その低い声だけが響く。
「ヤマタノオロチさ」
その名を耳にした瞬間、葉山の背筋を冷たいものが走った。
神話の名であることくらいは誰でも知っている。
だが、今この男の口から語られた以上、それは単なる昔話では済まされない。
「……ヤマタノオロチ」
思わず、その名を反芻する。
フェルナンデスは穏やかな笑みを崩さない。
しかし、その瞳の奥には次なる計画への期待が静かに宿っていた。
「詳細は追って連絡する。それまでに準備を進めておいてくれたまえ」
そう言い残すと、尾飾りを懐へ収め、静かに立ち上がる。
襖が音もなく開き、その背中は何事もなかったかのように廊下の奥へ消えていった。
その姿が完全に見えなくなってから、葉山はようやく大きく息を吐く。
握り締めた拳には、いつの間にか汗が滲んでいた。
「ヤマタノオロチ、だと……」
低く呟く声は、自分に言い聞かせるようだった。
「洒落にならない依頼だな」
静かな料亭の一室に、その独り言だけが重く残った。
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