5-1-14 ロキアンの悩み1
ロキアン・フェルナンデスは疲れていた。
勤め先の会社はいま急速な拡大期を迎えている。
朝から会議が続き、その合間に大量のメールを処理し、取引先との打ち合わせを終えれば、今度は次の企画書へ目を通す。気がつけば一日が終わり、デスクの時計だけが時間の経過を知らせていた。
自身のオフィスへ戻ったロキアンは、ネクタイを少し緩めながら、パソコンへ表示された売上予測の数字を静かに見つめる。
数字は嘘をつかない。
だからこそ彼は、最後の一桁まで目を通す癖があった。
だが最近は、その集中力を保つことが難しくなっていた。
突発的な眠気に襲われるのだ。
最初は気にも留めていなかった。
仕事が忙しい時期なのだから当然だ、と。
しかしここ数週間で、その頻度は明らかに増えていた。
昼食後や深夜ならまだ理解できる。
問題は、午前中の会議や重要な商談の最中にまで、前触れなく意識が遠のくことだった。
コーヒーを飲む。
軽く頬を叩く。
席を立って歩く。
思いつく限りの対策を試したが、それでも瞼は鉛のように重くなり、数分ほど記憶が途切れてしまう。
そのせいで、重要な説明を聞き逃したことも一度や二度ではなかった。
さすがに異常だと思い、ロキアンは病院を訪れた。
「おそらく過労でしょう」
医師はカルテへ視線を落としたまま穏やかに言う。
「健康診断にも異常はありませんし、少し休養を取れば改善すると思います」
軽い睡眠導入剤が処方された。
だがロキアンは納得できなかった。
三十代半ば。
先日の健康診断も問題なし。
睡眠時間も平均以上は確保している。
もちろん忙しくはある。
しかし、この眠気だけは何かが違う。
そんな違和感だけが、胸の奥へ静かに積もっていた。
その夜。
自宅の書斎でソファへ腰掛け、ロキアンは仕事用ノートパソコンを開いていた。
未処理のメールを整理し、一日の報告へ目を通していく。
その途中だった。
「……?」
受信箱に、一通だけ見慣れないメールが混じっている。
差出人欄には、自分の名前が表示されていた。
最初は迷惑メールだと思った。
最近のフィッシング詐欺は巧妙だ。
差出人を偽装する程度なら珍しくもない。
そのまま削除しかけたが、指が止まる。
何かがおかしい。
ロキアンは詳細情報を開いた。
送信元アドレス。
認証情報。
送信経路。
一つずつ確認していく。
やがて、眉がわずかに動いた。
「……一致している?」
送信元は間違いなく自分のアカウントだった。
認証も正規。
アクセス元のIPアドレスまで、自宅回線と一致している。
つまり──。
「俺が送った……?」
そんなはずはない。
記憶にはまったくない。
ロキアンは椅子へ深くもたれ、腕を組んだ。
眠っている間に送信したのだろうか。
そんな馬鹿な話があるのかと思いながら検索すると、夢遊病の患者が買い物をしたり、SNSへ投稿したりした例はいくつも報告されていた。
完全に否定はできない。
だが、自分には夢遊病の症状など一度もなかった。
画面を見つめたまま、ロキアンは小さく息を吐く。
そして、ようやく気づいた。
差出人ばかり気にしていて、肝心の本文をまだ読んでいないことに。
件名には短く書かれていた。
『重要! 読んだら削除しろ』
何気なくクリックした、その瞬間だった。
本文には、たった一行だけ。
奇妙な差出人:
こんにちはロキアン、私はお前だ。
ロキアンの背筋を、冷たいものがゆっくりと這い上がった。
ロキアンはしばらく画面を見つめていた。
悪質ないたずら。
誰かの嫌がらせ。
あるいは巧妙な詐欺。
思いつく限りの可能性を並べてみるが、どれも決め手に欠ける。
この不可解な現象の正体を知るには、送り主へ直接問い返すしかない。
そう判断すると、ロキアンは短く返信を打ち込んだ。
ロキアン:
誰だ? 俺をからかっているのか。
送信ボタンを押す。
その直後だった。
受信を知らせる通知音が鳴る。
思わず苦笑が漏れた。
自分宛てなのだから、届くのが早いのは当然だ。
だが、その「当然」が今はひどく気味悪い。
届いたメールを開く。
奇妙な差出人:
初めて親父のスーツを着た日のことを覚えているか?
ロキアンの指が止まった。
呼吸まで止まりそうになる。
それは、誰にも話したことのない出来事だった。
十代の頃。
父の書斎へ忍び込み、仕事用のスーツをこっそり羽織ったことがある。
鏡の前でネクタイを締める真似をし、大人になった気分で得意になっていた。
その時だった。
部屋の扉が開き、父が入ってきた。
叱られる。
そう身構えたロキアンへ、父は怒るどころか静かに笑い、
「いつか、本物のスーツが似合う男になれ」
そう言って部屋を出て行った。
短い一言だった。
だが、あの日初めて父に一人前として見てもらえた気がした。
その記憶は今でも鮮明だった。
だからこそ誰にも話していない。
照れ臭さもあり、自分だけの思い出として胸の奥へしまっていた。
ロキアンは改めて画面へ向き直る。
指先が、わずかに震えていた。
ロキアン:
その話を、どうして知っている。家族にも話したことはない。
送信する。
今度は返信まで少し時間があった。
数十秒。
時計の針だけが静かに時を刻む。
やがて新着通知が表示される。
ロキアンはゆっくりとメールを開いた。
奇妙な差出人:
そのあと、お前は袖へコーヒーをこぼした。
奇妙な差出人:
父に気づかれないよう浴室で必死に洗った。
奇妙な差出人:
父は最初から全部知っていたのかもしれない。
ロキアンは椅子から立ち上がった。
思わず机へ手をつく。
「……そんなことまで」
記憶の奥底へ沈んでいた情景が、鮮明によみがえる。
袖へ広がる茶色い染み。
浴室で必死に水を流したこと。
乾かそうとドライヤーまで持ち出したこと。
そして翌日、何事もなかったように父がそのスーツを着て仕事へ向かったこと。
あれほど必死に隠したつもりだった。
父は気づいていたのかもしれない。
だが、そのことを確かめられる相手は、もういない。
誰にも話した覚えのない記憶が、画面の中へ並んでいる。
ロキアンは額へ手を当てた。
背中を嫌な汗が流れる。
見知らぬ誰かに秘密を知られたのではない。
自分自身の記憶を、隣で一緒に思い出している誰かがいる。
そんな錯覚だった。
「……一体、何者なんだ」
静まり返った書斎で、その呟きだけが虚しく響いた。
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