64.貴女はかわいらしい子猫だけれど
「ババア、お前いい加減死ね」
「はあ、はあ……そういうわけには、いかないわ」
ぼっちゃまを逃がすため、バルカの前に立ちはだかったのはいいものの、奴の思うままに切られ、全身がズタズタで立っているのもままならない。
「そんな身体でいつまでその元気がもつかな」
血がぽたぽたと滴り、地面に黒いシミを作り、じわじわと広がっている。
「はぁ、やっぱり、あんたは口数が多いわね」
ふっと笑うと、途端に怒りに満ちた顔で距離を詰められ、防御する間もなく右頬を殴り飛ばされた。
「ぐうぅっ」
焼けるようにジンジンと痛む頬。奥歯が数本割れてしまった。口の中に血があふれ、呼吸がしづらい。プッと吐き出すと、血だまりの中に割れた歯が転がった。
「まだ立ってんのかよ、だりぃな」
この男だって、全くの無傷ではない。脇腹と肩口、それに背中を切り付け、それなりに痛むはずだ。常人ならば。
立っているつもりだったが、ずるずるとその場に座り込んでしまった。足が震え、もう立ち上がることはできそうもない。
どうしよう。どうしたら。
「俺を止めたければ、完全に息の根を止めないと無理だって、よく知ってんだろ!」
地べたに座り込む私の顔を踏みつけようと、バルカの足が容赦なく振り下ろされる。
「!」
間一髪で避けてはいるが、失われる血液の多さで、次第に目が霞んでくる。
もう、素早く動けない。
(――あぁ……私は、ここで死ぬのかもしれない)
二度三度と身をくねらせたところで、とうとう捕まってしまった。
「がぁああああ!」
内臓を潰される痛みで、こらえきれずに声が漏れてしまった。
ぼっちゃまは逃げられたか、お嬢様の時間を稼ぐことはできたか。それだけが気がかりだった。
「おらおら、痛いかよ? 昔々にお前たちに殺されかけた俺も、同じぐらい痛かったぜぇ?」
固い靴底で臓器を踏まれる苦痛、息ができない。
抵抗する気力もなく、なすがままだった。
脳裏には、走馬灯のようなものが流れた。
ベルナールとの暗殺の生臭さ。ぼっちゃまとの出会い。セレニータ帝国での日々と、お嬢様との生活。
すべて愛しい思い出だ。
気を失う前に、私が最後に見たのは、愛しい猫が、バルカめがけて鋭い突きを繰り出す姿だった。
◇
「コスタンツァ様に何をする!」
バルカと呼ばれる男が、敬愛する師匠を蹂躙する姿を見て、血が燃える。身体中が真っ赤に沸き立ち、髪の毛が逆立つ。
ベルナール様もコスタンツァ様も、血だまりの中に力なく頽れている。息があるか、ここからではよく見えない。
「っ! なんだ小娘!」
後頭部に一撃を当てたのに、全く痛がるそぶりも見せない。前に聞いた通り、怪物だ。こちらの手はジンジンと痺れている。
「なんだ、本当にかわいらしい子猫ちゃんじゃねぇかよ」
振り返ったバルカは、私の姿を見て、せせら笑った。
侍女服を纏った私は、ただの小娘に見えるだろう。
私は燃え滾る闘志を隠し、笑みを貼り付けた。
悟られてはならない。こちらの感情を。
「はい、キティと言います。どうぞお見知りおきを。とはいえ、貴方には今ここで、死んでいただきます」
「なんだと? お前ごときに、何ができる」
ジリジリと、倒れた二人から引き離すように距離を取る。
(――早く手当をしなければ)
バルカの身体からも血が流れているのに、痛がるそぶりを見せない。
「貴方は、痛覚がないのですね」
こちらを見下す余裕のあった顔から、笑みが消え、鋭く睨みつけてくる。
(――図星ということか。感情を顔に出さない訓練を受けていない、なんてお粗末で中途半端。暗殺者として不適格)
コスタンツァ様に随分前に言われたの。
貴女はかわいらしい子猫だけれど、本当は虎の子なのよって。
「ふん。違法な薬物に手を出して、お二人の逆鱗に触れた愚か者です。消されて当然だったのに、運がよかったのですね」
ディヴァーノの蹄の音を隠すために、声を張り上げた。
わざと足音を立て、少しでもこちらに注意が向くように。
「おかげでこっちは、どんな無茶しても痛くねぇ。俺を止められるもんなら止めてみろ」
やれやれと言う具合に両手を広げて見せた。
あの薬は、大きな副作用がある。使えば使うほどに人の攻撃性が増大し、自制心がなくなる。そんな人間の行きつく先は、周囲の人間を巻き込んで破滅するしかない。
「そう。ペラペラとよくお口が回りますね。キャンキャン吠えて、みっともない。口数の多い男はモテませんよ」
バルカが怒りに満ちた顔で突っ込んできた。
思ったよりも早い!
ステップを踏みながら、拳の右に左にと拳が叩き込まれる。
(――あぁ、こんなのは、あの頃のベルナール様の蹴りのほうが早かった)
身体中に靴型の痣を刻まれ、敗北した日を覚えている。
倒れて動けない私を、優しく抱き上げてくれた両手を覚えている。
拳が当たらないのを見て、今度は蹴りを混ぜてきた。
前蹴りに回し蹴り、膝蹴り。
目で追える。
顔の横をシュッと蹴りが繰り出され、風圧で髪の毛が千切れた。
(――こんなの、コスタンツァ様の突きのほうが鋭かった)
血まみれになり、全身が腫れあがった夜、一晩中手当してくれた布巾の冷たさをよく覚えている。
その手の優しさも。
「避けるだけじゃねぇか。それじゃ俺は倒せねぇぞ!」
バルカには、私に何も当てられない焦りが滲んでいる。
私を煽って、隙を見つけようとしている。
その手には乗らない。
「貴女は無尽蔵の体力があるわ。私やベルナールも叶わないほどのね」
お二人が隠しきれないほどに衰えていると知った時は、涙しそうになった。
いつまでも私の師匠で、越えることのできない壁だと思っていた。
(――私が守るわ。お二人も、お嬢様も、皇子殿下も。全部全部、私が守るわ)
ステップを踏んで、バルカから距離を取る。
その様子に、疲れが出たと勘違いしたのか、バルカが嬉しそうに笑った。
(――もう動きが鈍い)
すでに大量の血液が流れ、思うように動かせないはずなのに、無茶な動きを繰り返している。
身体は、とっくに限界を越えているはずよ。
ステップを踏みながら、半身になった。
重心を落とし、両足で大地を掴む。
二人の師匠から何千回と叩き込まれた構え。
バルカの大振りな拳は、スローモーションのようによく見えた。
身体を捻って、拳を躱し、両足に体重をしっかりと乗せた。
抑えていた闘気をすべて拳に込める。
奴の身体を突き破る勢いで、渾身の一撃を繰り出した。
「っ! ぐううぅぅ」
拳は鳩尾に深々と突き刺さり、内臓をいくつか潰す感覚が、直に伝わった。
バルカから初めて苦しげな声が漏れた。
「痛覚がなくても、内臓を潰されれば動けないわよね」
腹を押さえてのたうつバルカを、冷ややかに見つめた。
「わかった? だから私は――虎の子なのよ」




