63.愛馬よ、東へ駆けよ
「コスタンツァ!」
窓に駆け寄りたくても、キティが許してくれなかった。
「ルナリス様、お早く。直に第一皇子殿下がいらっしゃいます。あのお二人の犠牲を、無駄にされるおつもりですか」
キティがわざと、犠牲、という単語を使ったのはわかっている。けれど、その言葉にはずっしりとした重みがある。拳に力が入り、ぎゅっと握りしめた。甘えていてはだめなのだ。しばし目を閉じ、覚悟を決めた。
「…わかっているわ。すぐに着替えます。髪は…外套で隠せばいいわね」
お仕着せを着て、外套を深く被った私は、まるで逃げ出したあの夜を思い出す格好になった。世界に誰一人として味方がいないと思い込んでいた、孤独な私に。
「ルー!」
ノックなしで、レオ様が駆けこんできた。肩で大きく息をしている。その拳は、固く握りこまれていた。後ろにベルナールがいないのは、そういうことなのだわ。頼りにしていた人がいない悲しみで、涙がこみ上げてきた。
「第一皇子殿下、ルナリス様はご準備ができています。ビアンカ様も。お早くお発ち下さい」
レオ様が、ハッとしたようにビビを見つめた。
「お任せください。立派に務めさせていただきます」
自分も怖いはずなのに、私たちを送り出すために無理をしている。彼女の手が小さく震え、唇の色が悪い。でも、今はそれを指摘してはいけない。
「だが、ここからどうやって出るんだ。脱出口はどこだ」
レオ様がキティに問うた。
「こちらへ」
キティは、裏庭の窓を開け、ロープを差しだしてきた。中庭から裏へ回るには、建物に沿って外を大回りするか、この棟を突っ切る他ない。ただ、この棟の入口は、レオ様が固く閉ざしたはず。うまくすれば、時間が稼げるかも知れない。
「わかった。先に私が降りる。後からルーを降ろしてくれ」
「心得ました」
柱に結びつけられたロープの強度を確かめながら、レオ様が窓枠に足をかけた。
「…いや待て。誰がアイツをここに」
下を覗き込んだレオ様が、不可解そうに首を傾げている。
「どうされたんですか、レオ様」
そろそろと下を覗き込むと、そこには、ディヴァーノが待ちわびたように座っていた。私に気づいたのか、早く降りてこいとばかりに、首を振っている。
「どうしてここに。誰がここに引いてきたのですか」
「ルナリス様、ディヴァーノは、鞍をつけておりません。おそらくですが、自力でここに来たのではないでしょうか。一番早く、異変に気づいたでしょうし、恐ろしいくらいに頭のいい馬ですから」
下を見たキティも、訳がわからないらしい。頭がいいで片づけていいのかわからない。でも、逃げるには、馬が必要だ。ディヴァーノが来てくれて、本当に助かった。
「私は嫌われているからな…いや、ともかく下に降りるぞ。ルー、先に行く。すぐに降ろしてもらうんだ」
ロープに結び目を作り、そろそろとレオ様が降りていく。
「キティ、すぐに逃げるのよ。ビビをお願い。必ずまた後で会いましょう」
静かに礼をしたキティとビビに、背を向けた。このままでは、きっと泣いてしまうから。
降りたのがレオ様で、ディヴァーノが激怒したが、私がキティに降ろしてもらうと、途端に機嫌が直った。駆け寄った私に、嬉し気に鼻を押し当て、甘えて来た。そんな彼を撫でながら、囁くように願った。
「ディヴァーノ。すぐに逃げなければならないの。あなたがレオ様を嫌っていることは、よくわかっているわ。でも、彼は私の大事な人よ。失ってしまったら…もう、立ち直れないわ。お願いよ、一緒に乗せて、駆けてちょうだい」
長いまつ毛に縁どられた大きな瞳が、私を真っ直ぐに見つめている。
(——心の中を覗いているみたい)
彼は、不満げに足を踏み鳴らすと、観念したように耳を伏せた。感謝を込めて首筋を撫でると、温かな体温を感じた。
「ありがとう、ディヴァーノ。ここに来てくれて」
拗ねたようにふんと鼻を鳴らしたディヴァーノが、とても愛らしかった。
「ルー、やはり私は別の馬を探してくるよ」
周囲を見に行っていたレオ様が、戻ってきた。イライラした様子のディヴァーノは、レオ様の襟を咥えると、強引に自分の方へ引き寄せた。
「おわ!なんだ。やめてくれ、離せ」
手足をばたつかせ、もがいているレオ様に、思わず笑ってしまった。
「レオ様、ディヴァーノが乗せてくれます。さぁ、早く」
戸惑うレオ様を急かし、二人でディヴァーノに跨った。外套を深く被りなおすと、駆け始めた。二人を乗せているのに驚くほど軽やかだ。
「ルー、どこへ向かうんだ」
「ひとまず東へ。急ぎましょう!」
ディヴァーノを向かわせたのは、東。それは偶然にも、敵を追っていたグレン卿が向かった方向であった。




