62.お嬢様のために
「師匠だと。だが、そんな話は今まで一度も…」
「そりゃそうだろ。なにしろ俺は、この老いぼれ共にとっちゃ、苦い記憶だろうさ」
くっくっと笑うバルカからは、圧倒的な余裕が見て取れる。
「…その口を閉じろ、バルカ」
ぺっとと口から血を吐き出した。息をするのもやっとのはずのベルナールが、その眼光だけで人を殺せそうなほど、赤々とした殺意を放っている。
「なんだ、まだ死んでねぇのかジジイ。くたばれよ、楽になれるぜ」
バルカの意識がベルナールに向いた瞬間、上から何かが降ってきた。金属音と火花が飛び散り、バルカが後ろによろめいた。
「コスタンツァ!」
両手に得物をもった彼女は、クルリと回転し地に降り立った。白髪が、月光を受けて輝いている。
「やっぱりババアもいたかよ」
上からの攻撃を躱したバルカは、傷一つなく、平然としている。
「ちっ!この化け物め。ぼっちゃま、ここは私に任せて、お逃げください。ベルナールは大丈夫です」
今まで感じたことのない、彼女からの有無を言わせない圧に、一瞬怯んでしまった。
「…大丈夫なわけがないだろう! お前たちをここで見捨てるわけにはいかない。絶対に連れて帰るぞ」
「お嬢様は、すでに準備を整えていらっしゃいますよ。駄々をこねず、早くおいきなさい!」
懇願のような絶叫だった。
(——ルーが待っている。行かねばならない。だが、だが……ここで見捨てるのか。この二人を。今まで仕えてくれた、この大事な二人を)
地面に縫いつけられたように、足が一歩も動かない。
「コス…タンツァ。お前、なぜ来た…ぼっちゃまと、一緒に…逃げろ」
その言葉に、コスタンツァが微笑んだ。
「なぜって、貴方を助けるために。ここまで一緒だったのだもの。最期まで一緒よ」
「…ふ…馬鹿な奴だな…だが、ありがとう」
ふっと笑ったベルナールは、安堵したように目を閉じた。両腕に、ズシリとした重みがかかる。まだ細く息をしている彼を、そっと地面に横たえた。
「さ、バルカは私が相手します。その隙に」
後ろ髪を引かれる思いだが、ルーを取られたら、全てが無に帰してしまう。
「おいババア、てめぇに俺がやれるわけないだろう」
「口数が多いわね、バルカ。弱い犬のようだわ」
「死ね、ババア」
にらみ合った二人は、風が途切れた瞬間に互いに飛び掛かった。コスタンツァが作ってくれたこの機を逃がすわけにはいかない。
全力でルーのいる棟へ走る。背後では、肉の切られる音と、コスタンツァのうめき声が聞こえた。立ち止まるわけにはいかない。涙をこらえ、奥歯を噛み締めながら、ひた走った。
——その少し前
「ビアンカ様、危惧していた事態が起きてしまいました。前にお話したとおり、どうかお願いいたします」
部屋の覗き窓からバルカが現れた事を知った私は、急ぎ、ビアンカ様のお部屋へ向かった。あんな化け物が現れるなど、想定外だ。
「分かったわ。でも、ルナリス様の説得には貴女も加わってね。あの方は、見かけより強情なところがあるから」
ビアンカ様は、外での騒ぎを聞きつけ、すでに起きて身支度を整えていらした。その手には、銀に輝く仮髪と外套、お仕着せのワンピースが握られている。
「ええ、もちろんです。さ、参りましょう」
急ぎお嬢様のお部屋へ向かうと、お嬢様もすでに起きていらした。おひとりで不安だったのだろう、月明かりの下で、そのほっそりした姿が一層小さく見えた。
「コスタンツァ、なにがあったの。外が騒がしくて、何か起きたのだけはわかるのだけれど」
縋るようなその瞳は、心細さに揺れていた。
「想定外のことが起きてしまいました。私もこれから、あちらへ参ります。時間がありません。さ、ビアンカ様」
後ろから進み出たビアンカ様は、おもむろに衣服を脱ぎ始めた。その様に、お嬢様はぎょっとしたように目を見開かれた。
「どういうこと、何をしようとしているの。ビビ、貴女は何を命じられたの」
「こういうことです、ルナリス様」
衣服を脱ぎ捨てると、お嬢様がよく身に着けているワンピースを身にまとい、仮髪を被った。途端に、お嬢様に似た、替え玉が出来上がる。
「ダメよ、私は逃げないわ。ここに留まるわ。あなたたちを差し置いて、私だけが逃げるなど、許されないわ」
言葉にせずとも、すぐにお嬢様は全てを察せられた。やっぱり私たちのお嬢様は賢いわ。
「いいえ。セレニータ帝国の次期帝妃様を、ここで失うわけにはいきません」
きっぱりと伝えると、嫌々というように首を横に振られた。
「ルナリス様、時間がありません。それに、これは帝妃様からの指示です。万が一の時は、必ず逃がすようにと。貴女様には、それに従っていただく他、ありません。それに私も逆らえません。ルナリス様の身代わり、立派に務めさせていただきます」
ここで一度、言葉を切ったビアンカ様は、大きく息を吸われた。
「…ここまでは建前です。ルナリス様。私を投獄することもできたのに、そうされなかった。私を傍に置いたままにしてくださった。伯爵令嬢のままでいさせてくださった」
ルナリス様をまっすぐに見つめている。
「私自身を見てくださった。貴女様のような方は初めてでした。身代わりになれることは、誉れです。どうか、お逃げ下さい」
誰が見てもほれぼれとするような、美しいカーテシーだった。
「ビビ、やめて、そんなこと言わないで」
お嬢様の目は、みるみるうちに涙が盛り上がって、今にも溢れてしまいそう。
「さ、お早く。駄々をこねず、早くお着替えを。私は…行かねばなりません」
部屋の隅で控えていたキティと目が合った。私は、決してバルカには勝てない。分かっていても、行かねばならない。例え死地であろうとも。彼女には、おそらく伝わってしまった。
「なに、なにを言ってるのコスタンツァ!」
悲鳴を上げるお嬢様に、お暇を告げる。
「お嬢様、このコスタンツァめは、この数か月とても楽しゅうございました。ベルナールもきっと同じでしょう。今後は、キティが務めさせていただきますから、心配はいりませんよ。貴女様にお仕えできて、幸せでございました」
駆け寄ろうとするお嬢様を、キティが引き留めた。
「後は任せましたよ、キティ」
眼前のバルカの意識を、ベルナールが逸らせた。流石ベルナールね。その瞬間、窓から身を躍らせる。
迷いなど、なかった。全ては、お嬢様のために。




