75.陽の射さぬ朝
美女は、ぺろりと上唇を舐めた。その舌が、異様に赤く熟して見えた。
「な、なによ。それ。いったい何をするつもりなの」
じりじりと後ずさりしても、そこまでずいずいと距離を詰められ、背中が壁に当たってしまう。
「こっちに来ないでよ。大きい声出すわよ。お父様にも言いつけてやるんだから。お前なんか、私よりも薄汚い黄色じゃない。私の価値がわからないのかしら」
苦し紛れにそう叫んだら、彼女はピタッと動きを止めた。
(――身の程がようやくわかったようね。まったく、驚かすんじゃないわよ)
ホッとして身体から力が抜けた。知らないうちに緊張していたみたい。人間に見えるけれど、本当は違う生き物なんじゃないか、と疑った自分が馬鹿らしい。でも、この無礼者はどうしようかしら。
「あんた、名前はなんていうのよ」
呼び方がわからなくて、コイツに直接聞くしかなかった。いつまでもこの女とか、コイツとか呼ぶのは、あんまりにもお行儀が悪いもの。
「さぁ。もう名前はずいぶん前に失くしてしまったから」
そいつはにこにこと笑ってそう言った。なにがおかしいのよ。気味が悪いわ。
「なんなの、気持ち悪い。早く出て行って! さぁ、出て行って―――!!」
これ以上ないくらい声を張り上げると、こいつはズカズカと距離を詰め、私の顎を掴み上げた。
「な、なにするの」
「黙りなさい」
ピシャリとしたその声音は、逆らうことを許してくれない。知らず知らず喉がゴクリと鳴った。
「貴女、私のいとし子を虐めたわね」
いとし子? なにそれ。そんなもの知らないわ。
「そ、そんなの知らない……」
「そんなはずないわ。貴女が追いつめて、この家から追い出したじゃない? わたくしに嘘をつくなんて、肝が据わっているのね」
まさか、あの色なしのことを言ってるの? いとし子ってなに? そんなの、私知らないわ。
「あんな奴、価値なんかゼロのクソ女だわ。追い出されて当然……んぐぅっ」
顎を掴む手に力が込められ、ギリギリと締め上げられた。顎が砕けちゃう。痛い、放してよ。
「ねぇ、いいこと。わたくしの前で、二度とそんな事を言ってはダメ。わかったわね?」
優しく微笑まれ、コクコクと頭を振った。しょうがないわ。暴力には逆らえないもの。一生バカにしてやるんだから。
「やっぱり貴女の性根は腐ってるわね。どうしようもないほどに」
パッと手を離され、突き飛ばされた。げほげほと咳が出る。おそるおそる顎を触ると、折れてはいないみたい。でも、爪の食い込んだ痕が、指先で感じられた。
「こんなことして、ただじゃすまさないから!」
「ええ。そうよね。わたくしも、ただでは済まさないわ」
女はここで息を大きく吸い込んだ。
「貴女には、罰を受けていただきます。泣き叫ばなければ、なんの害もありませんからね。さぁ……貴女は光を失う」
私に手をかざした女は、そう唱えると、すっと消えてしまった。
「なにあれ。光を失うって。なんにもなってないじゃない」
目は見えるし、色も失っていない。はったりね。
「まったく、不審者には困ったものだわ」
変な女の対応で疲れてしまい、私は三度目の二度寝に入った。大変なことになったとわかったのは、その翌日の朝だった。
◇
「お嬢様、朝でございますよ」
ゆさゆさといつもの侍女に起こされ、目が覚める。でも、まだなんか暗くない?
「うーん。まだこんなに暗いじゃない。もう少し寝かせてよ……」
寝台に戻ろうとする私を、侍女が腕を引いて引き留めた。
「何をおっしゃるのです。もうこんなにお日様が高いですよ」
シャーっとカーテンを引くと、眩しい光が入るはず……はず……あれ?
「お、お嬢様、いったい何をなさったのです」
私の身体だけを避けるように、室内に光が降り注いだ。
昨日のあの女の言葉が耳に蘇る。
――光を失う。
文字通り、私は、日光を失ってしまっていた。




