8話 無視
午後一の授業は体育。
クラスの男連中と運動場へと向かっていた。
ある一人が言う。
「俺さ、きょう登校したとき田中汐彩さん見たぜ。相変わらず綺麗だった。目の前を通り過ぎていったんだ。いい匂いだったな」
なんだと、うちの義母を?
見るな! 嗅ぐな!
「うちの学校、人気があるのは汐彩先輩だけじゃないぜ」
そう言ったのは蟹沼冬牙だ。
得意顔で腕組みしている。
男連中の一人がぽつり。
「知ってるぜ。四天王……だろ?」
冬牙が首肯する。
「そのとおり。汐彩先輩を含む四天王というものが存在する。汐彩先輩の他には、大人の色香を放つ老神綺沙さんとか、小動物系の南牧かりんちゃんとか……」
話の途中だが、老神綺沙って先輩ならば知っている。昼休みに体育館で会った人だ。いま思い出すと……。なるほど、確かに結構な美形だったかもしれない。
ここでまた一人が声をあげる。
「おっ、噂をすれば汐彩ちゃんだ!」
汐彩と仲間が歩いてくる。
てか、ちゃん付けすんな!
俺たちは彼女たちとすれ違おうとしていた。
ここは家ではなく学校だ。しかも大勢が見ている。気軽に声をかけるわけにはいかないだろう。
気づかないフリで通り過ぎるべきだよな? どうせ彼女も俺に気づいちゃいないさ。大勢いる中の一人なんだから。
目が合いそうになる直前、俺は逆の方を向いた。
うん、大丈夫。
無事にやり過ごせた。
通り過ぎた汐彩たちを、連れの数人が振り返る。
こら、見るな。
前を向いて歩け。
彼らは笑顔になった。
「なあ、いまの汐彩さん見たか」
「見た見た。片手を半分あげてたよな」
「だろ? 俺たちに手を振ろうとしてたんだ」
手を振ろうと?
だとすれば、俺に向けてのことなのは間違いない。
てことは……。
俺、もしかして無視したことになったのか。
感じの悪い態度をとってしまったのか。
会釈ぐらいはすべきだったかもしれない。
うまくやれば、周囲に気づかれずにできたかもしれない。
気を悪くしていなかればいいのだが……。
俺の印象、悪くなったかな。
冬牙が男二人に言う。
「なわけねえよ。お前らの勘違いだ。この中に知り合いなんているはずあるか」
だが二人は納得いかないようだ。
「勘違いでも見間違いでもないと思うぞ」
「ああ見えて、実はビッチなんじゃね? 俺たちを誘ったんだ」
どうしてそんな発想になるんだよ。
冗談だとしても腹が立ってきた。
二人の首根っこを掴み、歩く足を早める。
「ちんたら歩いてっと次の授業、遅刻すっぞ」
二人にエルボーで返された。
「ぐげっ」
帰宅した。
あとから汐彩も帰ってきた。
無視したこと、どう思っているのだろう? ただあれは、俺たちの関係をバレないようにするため仕方のないことだ。それでもずっと気になっている。
なんにせよ、顔を合わせなければならない。
いったいどんな顔で出ていけばいいのか。
「あの……おかえりなさい」
「怜己くん。ただいま」
いつもどおりの笑顔だった。
内心はわからない。
「昼休み明けのことですけど、すみません」
まずは詫びた。
「ん? 何かあったっけ」
「ほら、すれ違ったとき無視してしまいまして」
「なんだ、びっくりした。そんなことで謝らないでよ」
怒ってない?
「でも俺、感じ悪い態度だったなって思いまして」
「ううん。学校でお母さんと会うの恥ずかしいもんね」
「いや、その……バレるわけにはいきませんから」
「ふふふっ。うん、そうだよね」
とりあえず本当に気分は害してなさそうだ。
「だけど今後を考えると、ああいうふうに無視し続けるのって、心苦しい気もしますし」
汐彩は「うーん」と言いながら天井を見あげた。
「そうだ。あたしたちだけの挨拶を作るってどうかな」
「どういうことです?」
汐彩が説明する。
「挨拶って言葉だけには限らないわけよ。お辞儀とか、挙手とか、合掌とか、ハグとか。いろいろ文化によって異なってて、たとえばチベットだと『あっかんべー』みたいなこともするんだって」
つまり『無視してません』という合図を作ろうってわけか。
「そうですね。いいかも。さすがに『あっかんべー』は目立つから無理そうですけど」
「あっ、ウインクはどう?」
「それ、周囲から誤解を受けますよ」
てか、ウインクされたら俺が感電死してしまう。
「投げキス?」
「余計に駄目でしょうがっ」
そんなことされたら即死だ。
「冗談。怜己くんからは何かない?」
じゃあ……。
「ウインクじゃないけど、両目でゆっくり瞬きするってどうですか」
「うん。簡単でいいね。でも二人同時にゆっくり目を閉じたら、相手の挨拶が見えないかもね」
「だったら相手側は、高速で二回瞬きで返すのはどうです」
「うん、それがいい」
俺たちの挨拶が決まった。
二人だけの内緒の挨拶……というのが、なんかイイ。
これで母子じゃなければ最高だったのだが。
汐彩が三歩近づき、俺のすぐ前に立つ。
「練習しよっか」
はあ、練習!?
練習なんて別に……。
汐彩がゆっくり目を閉じた。
本当に練習するらしい。
目を閉じた顔にドキドキする。
まるでキスでもするみたいな……いや、なんでもない。
俺、馬鹿だ。
汐彩が目を開いてすぐ、俺は高速瞬きを繰り返した。
なんだろう、この恥ずかしさ。
近距離で向き合ってするものじゃない。
心臓が破裂してしまう。
「うん。できたできた。もう一回する?」
無理だ。寿命が縮む。
俺を殺さないでくれ。
「いや、もう大丈夫です」
とりあえず逃げた。




