最終話
居間で汐彩が真相を明かすと、父の笑い声が家じゅうに響いた。これほど愉快そうに笑う父の顔を見たのは、たぶん初めてだろう。
だが俺としては笑い事じゃない。念のため、もう一度確認してみる。
「あの……。汐彩さん。本当の本当に、父の再婚相手じゃなかったんですか? 義理の母じゃなく姉ってことだったんですか?」
また父が大声で爆笑する。
「アハハハハ。怜己、いくらなんでも高校生の汐彩ちゃんと結婚するとか、常識的にありえると思うのか? 笑いが止まらなくて、死ぬかと思ったぞ」
「……」
さっき父にはクズだなんて言ってしまったが、クズなのは俺の方だと自覚せざるを得ない。義母の名前を知らなかったなんて。
父の話によれば、美鈴という義母の名前をメールで何度も知らせたらしい。情けないことに俺のメール放置の結果だ。義母が入籍直後に亡くなったことさえ、今さら知ったのだ。
父にも汐彩にも謝った。
「ううん。あたしがいけなかったの。怜己くんが誤解したとき、すぐ訂正しないで、詳細も話さなくてごめんなさい」
「いいえ、悪いのはやっぱり俺です。でも……訊いていいでしょうか。どうして黙っていたんですか」
「そうよね、きちんと話さないと。ええと、まず一つが……」
汐彩が気まずそうに視線を落とす。
「……同じ高校生の男子と二人きりで暮らすのが、ちょっぴり怖かったから。義理の姉よりも母って思われてた方が安全でしょ」
確かに既婚者だと思わせていた方が、異性として見られることが少なくなるかもしれない。
「わかります。男子と二人暮らしなんて怖かったでしょうね」
「もちろん今は怜己くんが紳士ってわかってるから、怖いなんて一ミリも思ってないけどね」
「そう思ってもらえて嬉しいです」
だけど紳士って……。きょうソファーで居眠りから目が覚めたとき、汐彩と手を繋いでいた。手を放してからも、しばらく温もりを味わっていた。後ろめたさを感じてならない。
「ん? どうしたの、怜己くん」
「な、なんでもありません」
「それから訂正しなかった理由の二つ目だけどね……。本当にごめんなさい。単に面白かったからなの」
「面白かったって。そりゃ滑稽でしたでしょうね」
父はふたたびゲラゲラと笑い出した。
「笑いすぎ!」
「ごめん、ごめん」
「あともう一つの理由は……」
まだあるのか。俺は続きを待った。
しかし汐彩が首を小さく横に振る。
「……ううん。なんでもない。おしまい」
※ ※ ※
四日後、父はふたたび海外へと出発した。
汐彩との二人暮らしの再開だ。
居間のソファーに並んで座る。この前、途中までしか視聴できなかった映画を初めから見ることになったのだ。
ただ、あのときとは状況が少し異なる。隣りにいるのは義母ではなく義姉としての汐彩だ。独身であり、誰のものでもない……たぶん。
溜息をついた。
俺、何を期待してるんだ。義母だろうと義姉だろうと、状況なんて変わるものか。
「溜息……? こういう映画、退屈だったかな」
「いいえ、別にそんなことはありません」
視聴にまったく集中できていなかった。だから映画が退屈かどうか以前の問題だった。それでもこの時間がとても心地よかった。静かで落ち着いた映像や音楽は最高のBGMだった。その意味では優秀な映画に違いなかった。
いま俺、きっと幸せなんだろう。いつも田中汐彩が身近にいる。手の届かない存在だとしても、こうして仲のいい家族でいられるのだから。
また眠たくなってきた。意識が朦朧とする。瞼の重さのあまり、とうとう目を閉じてしまった。
このとき思わぬことが起きた。
眠気など一瞬のうちに吹き飛んだ。
半醒半睡の俺の手が、何者かによって握られた。
ここにいるのは俺以外に汐彩しかいない。
――ならば、汐彩が俺の手を?
そっと気づかれないように瞼を少し持ちあげる。
薄目で状況確認。
当然ながらやはり汐彩で間違いなかった。
てことは……あのときも俺が握ったのではなく、汐彩から握ってきたって可能性があったりするのか? しかも寝ぼけていたとかではなく、意図してのことだとか。
「汐彩さん?」
「はっ。ごめんなさい」
汐彩は慌てたように手を放した。
そんな彼女の手を、俺の手が追いかける。
俺、何やってんだろう。
だがこの手は空振りしてしまった。
それにしても、さっき何が起きた?
汐彩の手はなんのつもりだった?
頭の中が混乱している。
「あたし……小さい頃のことを思い出してたんだぁ」
手を繋いできたことと関係があるのだろうか。
「そ、そうですか」
としか返せなかった。
「以前、あたしが義理の姉だったのを隠してきたこと、理由を二つあげたでしょ。覚えてる?」
「もちろん覚えてます」
「でももう一つ理由あったんだ」
「それ、訊いてもいいですか」
汐彩は大きく首肯した。
「母が望んでいたことを、あたしが代わりに実現したかった」
「やっぱり意味がわかりません」
汐彩が目を細めて笑う。
「怜己くんはもう忘れちゃってるっぽいんだけどね、怜己くんとは同じ幼稚園だったんだ。よく一緒に遊んだんだよ」
小さい頃を思い出したというのは、そういうことなのか。俺は幼少期、こんな綺麗な人と遊んでいたとは驚きだ。
「すみません。覚えてません。記憶にないのが残念です」
「だよね。実はあたしたちが幼稚園児になる前から……ううん、生まれる前から、あたしの実母は怜己くんのご両親と親しかったんだって」
「初めて知りました」
「でさ。怜己くんのお母さんが亡くなったことで、あたしの母は幼い怜己くんのことをとても心配しててね。ときどきあたしに言ってたんだ。怜己くんのお母さんになってあげたいって」
「そうでしたか。それで……」
「うん。怜己くんがとてもとても大きな誤解をしたとき、怜己くんのお母さんになれるチャンスが転がり込んできたって思っちゃった。短い間だったけど、怜己くんのお母さんになれたのは嬉しかった。楽しかったな。ああ、でも、実際にはぜんぜんお母さんっぽくなかったよね。真似事すらできていなかった。あたしなんて頼り甲斐もなかったし」
「そんなことありません。汐彩さんは一生懸命、母としてやってくれました。毎日ご飯を作ってくれましたし、それ以外の家事だって俺よりもたくさんしてくれましたし、それにいつも俺のことを気にかけてくれましたし。心から感謝しています」
「そう言ってもらえると、なんか照れちゃうな」
汐彩は気づいているのか、いないのか……。いつの間にか彼女の手がまた近くにあった。俺の方から手をゆっくりと、少しずつ近づけていった。そしてあと一センチほどのところで――。
「あたし幼稚園のとき、怜己くんのことが大好きだったんだ」
「えっ」
俺の手が止まった。
「そんなびっくりした顔しないでよ。そういう意味じゃないの。仲のいい遊び相手としてってことだから」
なんだ……。
ちょっとガッカリしたけれど、そう思ってくれていたことは嬉しい。
「いえっ、驚いてはいません」
嘘をついた。バレバレかもしれないけれど。
「それ、当時の話なんだけどね」
ならば今はどうなんだろう?
知りたいけれど訊けるわけがない。
いや、訊け。
「じゃあ今はどうなんですか」
無言だった。
けれども――
温かな手が俺の手を握った。
___おわり___




