36話 口論
きょう汐彩には何かと驚かされた。
まず、今朝は炊飯器のスイッチ入れ忘れが発覚。それでも、毎朝弁当を作ってくれてきた汐彩には、感謝の言葉しか出てこない。あらためてそう思った。
続いて昼食時。クラスメイトの緋吹に難癖つけられていたとき、汐彩がパッと現れて隣に座った。緋吹から助けようとしてくれたのだろう。つくづく汐彩には感謝の気持ちでいっぱいになる。
けれども学校で親しくしているところを周囲に見られるのは、非常に危険なことだ。俺たちの関係が学校に知られることになりかねない。
最後は学校からの帰宅途中だ。庭坂柚乃がいるのに、声をかけてくるなんて。しかも、まるで親しさをアピールするかのように堂々と。さすがにああいうのはマズい。柚乃はときどき勘が働くからだ。
だから晩飯時、汐彩に言った。
「きょうみたいに家の外で、声をかけてきたり一緒に歩いたりするのって、ちょっとどうかなって思うんです。もちろん嫌なわけじゃありません。でも義理の親子であることや、同居していることが、学校の連中に知られると厄介です。だからこそ、バスの時間をずらして登校したり、二人だけの瞬きの挨拶を考えたりしてきたじゃないですか。それがすべて台無しになります」
汐彩からは「わかった」の一言。
本当にわかったのか?
ここでやめておけば良かったのだが、つい話を続けてしまった。
「それに、スプーンで『あーん』はありえませんよ」
「庭坂さんには見られたくなかった?」
「当然です。必要以上に仲良くしていると、ヘンに疑われてしまいますし。たとえ誰も見てなくとも、『あーん』なんて悪ふざけが過ぎます!」
「おうちで『あーん』は?」
「する必要がありません」
「親子なんだからいいじゃない」
「いやいや、親子がするものですか。赤ん坊じゃなく高校生ですよ」
「知らないの? 最近の親子は『あーん』くらいするものよ」
「馬鹿なことを言わないでください。ドラマでも漫画でも、そんなことしないじゃないですか」
「だって、それフィクションでしょ。ああいうのは現実と乖離してるだけだから。たとえば綺沙だって、ご両親から『あーん』してもらってるって」
「えっ!」
確かに……彼女は変な人だからな。そうなのか。
「うっそ♡」
くっそ。可愛く言いやがって!!!
ドキッとしたじゃないか。いつもしてるけど。
いたずらそうな笑顔……。
いちいち動揺させんなよ。心臓が破裂したらどう責任とるんだ。
「でもさ。庭坂さんに『あーん』されてたよね。あっちはいいんだぁ?」
まるで嫉妬しているみたいな言い方だな。そんなはずはないけど。
「いいわけないです。だから柚乃には拒否りました」
「庭坂さんの『あーん』のとき、嬉しそうに見えたけど?」
「ちっとも嬉しくなかったですよ!」
「だけどあたしが来なかったら、結局それを食べてたでしょ?」
ますますセリフが嫉妬っぽくなった。
きょうの汐彩は、いつもの老神綺沙以上にからかってくる。
「いいえ、食べませんよ」
……たぶん。
「でも庭坂さんの手から食べたかったでしょ。可愛いもんね」
「外見は関係ありません。確かに俺と柚乃は冗談こそ言い合いますけど、決してそういう男女の仲にはなりません」
柚乃はあくまで幼馴染の親友であり、それ以上にはならない。そう思いながらここまできたのだ。
「さあ、どうかな」
「俺と汐彩さんとの関係だってそうじゃないですか。同じことなんです。この先、汐彩さんにも柚乃にもそんな感情を抱くことは、絶対にありませんから」
汐彩は校内トップクラスの人気者。俺とは雲泥の差。高嶺の花もいいところだ。さらには父の後妻で俺の義母。恋愛感情は全力で封じなければならないし、今はまさにその最中だ。
汐彩からなんの返しもこない。
空気が悪くなった。さっきの俺の語気が強かったわけでもないと思うが……。
だとすれば、俺の言った内容が悪かったのか。もしそうだったら、どこがいけなかったのだろう。何を間違えたのだろう。
汐彩にはいつも笑っていてほしいのに。
きょうだってたくさん感謝しているのだ。
感謝……。そういえば感謝ってことで、白桃のケーキを買ってきたんだっけ。本当は幸せな気分のときに差し出したかったのだが……。
そうさ、少しでも早く汐彩の笑顔を取り戻したい。今できることと言ったらそれだけだ。
冷蔵庫からビニールの買い物袋を取り出してきた。
「汐彩さん。実は……日頃のお礼にと思って……」
「怜己くん?」
袋の中から白桃のケーキを出す。
汐彩の分と俺の分の二つがある。
「わあ、豪華そうなフルーツケーキ。冷蔵庫に袋があって何かなって思ってたんだけど、それが入ってたのね。片方、あたしに?」
「はい。もしよければ」
「ありがとう、怜己くん」
少しだけ空気が良くなったと思う。
俺たちは白桃の甘い香りに包まれた。
「ありがとうは俺のセリフです」
「えー、変なの」
「変でもいいんです」
「ますます変なの」
ここでイタズラを考えた。仕返しだ。
スプーンで白桃から一欠片をすくいとる。
「汐彩さん」
「ん?」
「はい、あーん」
スプーンを汐彩に近づける。もちろん俺はスプーンにまだ口をつけていない。
「えっ、あっ、あの……」
ほら、反応に困ってる。さあ、どうする?
じっと俺の目を見据えた。
しまった。怒らせたか?
パクりっ。
俺のスプーンから食べた。
それから立ちあがった。
「……意地悪」
白桃のケーキを持ったまま、自分の部屋に行ってしまった。
少し顔が赤かったのは、怒りのためだろうか。いいや、そのようには見えなかった。あれは明らかに照れていた。そりゃ、家族から『あーん』をされれば、小っ恥ずかしくもそうなるだろう。
さて……困ったことが一つ。
このスプーンだ。
このまま俺が使っていいものだろうか。
それとも、もったいないが洗うべきなのだろうか。
仮にこれを洗わずに使ったとしても、俺は悪くない。むしろ洗う方が不自然だ。
そう、悪くない。余計なことを考えずに……使っちゃおう。ごめんなさい。
一口目は感動のあまり大興奮。死にそうになった。しかし二口目に行こうとしたところで、罪悪感――というより自分への強烈な嫌悪感に見舞われた。今さら遅いと思ったが、スプーンを洗いにいった。
その日はもう汐彩の顔をまともに見ることができなかった。
ああ、あのときやめときゃ良かったな。




