13話 寝坊
起床したのは午前十一時半。
汐彩は先に起きていた。
「怜己くん、起きたんだね。おはよう」
「おはようございます」
パンと卵とベーコンを焼いてきてくれた。本当の母じゃないのに……彼女には頭が上がらない。
この日は老神綺沙が家に遊びにくることになっていた。しかし昨晩のことで起床時間が遅くなったため、彼女には約束を午後二時から三時へと変更してもらったそうだ。
ピンポーンと呼鈴の音がした。
玄関のドアを開けると、老神綺沙がいた。
三十分以上も早くやってきたのだった。
彼女が笑顔を作る。
「やあ、イトコくん!」
「あ、どうも」
冬牙によれば「四天王」のうちの一人として校内では人気の高い美少女とのことだが、俺としてはグイグイくるこの人がちょっと苦手だったりする。
そんじゃ俺はお邪魔ってことで……。
「これから出かけるところでしたので、ごゆっくりしてってください」
「えー! イトコくんもいると思って、たくさんクッキー焼いてきたのに」
彼女が服の肩口を掴んで放さない。強引な人だ。
汐彩も玄関まで出てきて、彼女に並ぶ。
「出かけるのは今じゃなければ駄目? せっかくなんだから一緒にクッキーもらおうよ」
結局、その言葉に従うことになった。
汐彩の部屋に入るのはほぼ初めてだ。厳密に言えば、引っ越しのときに家具を入れるのを手伝ったこともあるが、そのときはまだ彼女の個性は感じられない殺風景なものだった。
妙なドキドキ感があった。これまで柚乃の家に行くことはあったが、そこには男子部屋っぽさがあった。
しかしここは普通に女子部屋。可愛らしいカーテンやクッション、ミニキャビネ……。室内の空気を吸っただけで、有罪となりそうな気さえする。俺が裁判官だったらそうする。
棚に子豚のぬいぐるみを発見。俺がプレゼントしたものだ。大事にしてくれているようで嬉しい。
「ところでイトコくん。メッセージ見てくれなかったよね」
「メッセージ送ってくれてたんですか? すみません。俺、きょう起きたのが遅かったし、普段もあまりスマホはチェックしない方なんです」
「二人、連絡先交換してたの? そうなんだぁ」
汐彩は部屋を出ていった。
お茶でも淹れにいったのだろう。
老神綺沙が正面に座る。
「汐彩との二人暮らしはどう?」
どうと言われても……。
「家事とかやってくれますんで、めっちゃ有難いです」
「あの子、最初はツンとした感じに見えたけど、実際にはとても面倒見がいいからね」
「へえ、学校でもそうなんですかぁ」
「親しい人に限るのかもしれないけど」
彼女はそう言いながら俺の頭に手を乗せた。
「な、なんっすか」
「あたしも弟ほしかったなぁ」
「弟じゃないですから」
そう。彼女の前で汐彩と俺は従姉弟という設定だし、実際には義理の親子なのだ。
彼女がクッキーをつまむ。それをこっちに向けた。
「あーん」
あーんってなんだよ。俺に食わせる気か。それ、弟にするもんじゃないだろ。まさか俺を犬猫だと思ってるんじゃなかろうな。
抵抗の意思を示すべく、口をぎゅっと結んだ。
「何よ~」
「自分の手で食べます」
彼女は頬を膨らませた。
本当にこの人が苦手だ。
早く汐彩が戻ってくることを願った。
今度は棒クッキーをつまんでいた。
やはり俺に向けてきた。
「あーん」
どうしても彼女の手で食わせたいらしい。
一回食えば彼女の気が収まるのだろうか。
でもそういうのはちょっと。
「あーーん」
俺は口を固く結んだまま。
「あーーーーん」
彼女の声が大きくなってきた。
ドアが開いた。
紅茶の匂いがした。
汐彩が部屋に入ってきた。彼女が腰をかがめてパクり。俺の代わりに食べてくれた。ああ、助かった。
老神綺沙がニヤッと笑う。
「汐彩、あたしと間接キスした! さっきね、そこをこっそりくわえてたんだ」
「そんな不衛生なものをうちの子に? 本当だったら怒るけど」
うちの子って。
確かにそうだけど。
「冗談よ、冗談。さすがにそんな犯罪まがいなことしないって」
「まあでも美味しい」
汐彩はもう一つクッキーを手に取った。
俺もクッキーをもらった。ちゃんと焼けている。本当に美味しい。汐彩は料理が得意だが、この人も食べ物を作るのが得意なのかもしれない。
「とても美味いですね」
「そ? 良かった~」
「ねえ、綺沙。あたしが褒めたときは無反応で、どうして怜己くんが褒めたときは嬉しがるのよ」
「だってこんな感じの弟がほしいんだもの。ねえ、弟ちょうだい」
俺、弟じゃないぞ。
「うちの子はやりませんっ」
またうちの子が出た。従姉弟という設定なのに。
だが、老神綺沙は冗談で言っていると思っているだろうし、汐彩もそれを見込んで言ったはずだ。
しばらくして場所を居間に移した。
三人で映画を見るためだ。
途中で汐彩が視聴をやめた。
夕食の支度をするのだと言って。
居間はリビングダイニング式なので、食事を作っている汐彩の姿が見える。
目が合った。すると汐彩はゆっくりと瞬きした。俺は高速で瞬きを二回。二人だけの秘密の挨拶だ。まさかこんなときにするとは思わなかったが。
ところで老神綺沙だが……。
さっきからずっと俺にベタベタしている。頭をナデナデ。横っ腹をコチョコチョ。映画を集中して見られない。
今度は腕を掴まれた。またかよ。
しかし老神綺沙ではなく汐彩だった。
「手伝って」
調理場へと連れられていった。
彼女が作っていたのはパエリアだった。
「ごめんね。綺沙のせいで不快な思いをしたんじゃない?」
「いえいえ。全然全然」
「……」
この沈黙の間はなんだ?
「ち、違います! 誤解しないでください。全然って言うのは俺が喜んでたってことじゃないです」
「どうだか」
「本当に違いますって。俺が嬉しがるものですかっ」
ただ、もし汐彩にあんなふうにベタベタされていたら……。
おっと、俺は何を考えているんだ。汐彩は既婚者だ。しかもあの親父の妻なんだ。くそっ、親父め。八つ裂きにしてえ。
食後、映画をもう一本視聴。
外が暗くなってきたので、老神綺沙は帰ることとなった。
「バス停まで送ってってくれるでしょ?」
彼女の視線は汐彩ではなく、俺に向いていた。
もちろん言われずとも、そうするつもりだった。
一緒に玄関を出る。
「あれ? 汐彩も?」
老神綺沙がいたずらそうに笑っている。
「当然、うちの子を案じてのことよ」
「えー、あたしの心配してよ~」
バス停までは、あっという間だった。
老神綺沙を乗せたバスを見送り、汐彩とともに家へ帰る。
きょうで五月の連休は終了。
明日からまた学校だ。




