第六十九話 あきらめ
そして、運命の日曜日当日。
友香は冷え切った自室で、まだ痛む背中をかばいながら、少し厚着をして身支度を整えた。県立美術館は彼女の家からかなり遠い場所にあるため、午前七時五十分発の電車を使うことに決めていた。
駅までの道のりを少しでも体に負担をかけずに歩くため、まだ街が眠りから完全に覚めきらない朝七時前に、静かに自宅を出発した。
白い息を吐きながら一歩ずつ進むたび、胸の奥からせり上がる不安が友香の足を鈍らせる。
——本当に、行っていいのだろうか?
そんな疑念が、冷たい風と共に脳裏をかすめる。瑞希の遺した黒いスマホから知ってしまった、底知れない残酷性を持つ怪物、雨宮玲。
少しでも自分が関わり続けることで、あの優しくて温かくて、友香にとって一番大切な存在、明星にまで、瑞希と同じような魔の手が及んでしまうのではないか?
その不安が、友香の精神を容赦なく蝕み続ける。
それと同時に、かつて絶望していた自分の精神的な支柱となり、何度も救ってくれた明星の絵の、まだ見ぬ「新作」が美術館に展示されているという事実。
それは、今の友香にとって唯一の、どうしても裏切れない楽しみでもあった。
それでも……。
ふと立ち止まり、友香は自分の両手を見つめた。
——自分は、この手で瑞希ちゃんを「殺して」しまったのだ。
あのドッジボール大会の決勝戦、玲に言われるがままに放ったアンダースロー。その一投が、瑞希と玲の「命を賭けたチェスの駒」として利用され、瑞希を死に追いやる決定的な最後の一押しになっていた真実。
そんなおぞましい罪を背負った自分が、眩しいほど輝かしい道を歩こうとしている明星と同じ場所に立ち、東京でルームシェアをして共に絵を描くという夢のような夢を、これ以上追いかけて……いいはずがなかった。
それなら、いっそ自分の夢はすべて諦めてしまえばいいのではないか?
玲の言うがままに、公務員試験の勉強をし、公務員を目指す。それだって、数ある将来の可能性の一つに違いなかった。日本の職業の中でトップクラスに安定しているその道を、多くの人が望み、合格のために必死で努力している。
だったら、自分のこれからの夢も、意志も、将来のレールも、すべて玲の望み通りに任せてしまえばいい。そうすれば、あの計画書を見て、手放しで喜んでくれた母親も安心する。そして何より、自分が玲さえ見続けていれば、「排除」の対象から明星も、田中も、佐藤も、湯沢も外れ、彼女達の身の安全も守られる。
誰もこれ以上傷つかず、みんながそれぞれの未来へ進むことができる。
例え、自分という存在が「漆黒の檻」の中に一生幽閉されることになったとしても……。
重苦しい自問自答を繰り返しながら歩くうち、友香の足は、いつの間にか道すがらにある公園へと向かっていた。
そこはうっそうとした原生林が多く、十一月の朝の薄暗さが際立つ静かな場所だった。
——やはり、美術館に行くのはやめよう。
これ以上、自分の大切な「光」である明星の世界に、自分が入り込んで汚してはいけない。彼女のことは、誰にも気付かれない日陰から、静かに応援し続けるだけでいい。
友香は冷え切ったベンチに力なく腰を下ろすと、ため息と共に自身のスマートフォンを取り出した。明星はおそらく、準備や打ち合わせのため、この時間帯にはもう、美術館に向かっているはずだった。友香は、明星の番号を呼び出し、耳へとあてた。
「もしも~し!あ!友香?」
「うん……」
「どうした?」
明星が友香のトーンに何かを察する。
「やっぱり、私、行けない……」
「友香……」
「もしも、あなたにまで何かあったら……私はもう……自分が自分じゃなくなる様な気がしてる……」
「どういうこと?」
「実はね、今まで何人も、私のせいで人が傷ついていってる。
私がそこにいくと、きっと……良くない事が起こるの。
だから、絵を描くことも……もう辞めようと思う」
「え、ちょっと待って友香!友香は……それでいいの?」
「私はどうなってもいい」
「友香っ!!」
明星がこれまで初めてと言って良いくらいに、怒りを含めた声を上げる。友香も思わず口を止める。
「友香……。私は、友香が自分で進みたい道を歩むなら、例え私と違う道だとしてもきっと応援する。でも……よくわからないけど……自分を犠牲にして、誰かを守るために望まぬ道を選ぶのなら、それなら絶対に認めない!友香、友香も自分の道を進んで良いの!」
「でも……もうこれ以上、友達を巻き込みたくないの」
「人は関係無いじゃない!!」
明星がピシャリと言い放つ。
「あ、ごめん……。よく事情をわかってない私が言うのも、もしかしたら違ってるのかも知れない……。でもね友香、それでも、一度だけ私の絵を見て欲しい。そこから友香がもしも何か感じる思いがあるなら、それに従って欲しい。私はそう思う」
友香の頬に涙が伝わる。
「うん、あなたの言う通りにする。だから、せめて……私の……願いを聞いて欲しい……。明星……」
「分かった。美術館で友香に合っても、絶対に近づいたりしない。私は、友香が来てくれるだけで嬉しいからさ!」
友香は無言で頷き、そうして電話を切った。
最後に、何があったとしても明星の絵だけは見に行こうと心に決め、ベンチを立った。




