第六十八話 灯火
放課後の薄暗い廊下を、友香は息を潜めるようにして歩いていた。
誰とも関わらず、誰の視界にも入らないように、ただ足早に学校を去ること。それが今の自分にできる、唯一の防衛策だった。
しかし、美術室の前に差し掛かった、その時だった。
「あ、友香!やっと捕まえた!」
聞き慣れた、どこまでも真っ直ぐで温かい声が、静まり返った廊下に響いた。ハッとして振り向くと、美術室のドアに鍵を差し込み、今まさに開けようとしていた木花明星が、嬉しそうに顔を輝かせてこちらを見ていた。
友香は一瞬、背筋が凍りつくような感覚に襲われた。
あの事故で大怪我を負って入院して以降、明星とはずっとSNSを介して連絡を取り合っていた。友香にとって、病室に届く明星からのメッセージは、暗闇の中で自分を繋ぎ止めてくれる唯一の救いだった。
けれど、瑞希の黒いスマホから玲の正体を知ってしまってからは、その温もりすらも「恐怖の引き金」に変わってしまった。玲が、友香の唯一の光である明星の存在を知れば、今度は彼女が瑞希のように、社会的にも物理的に消去されてしまうかもしれない。
それだけは、何があっても避けたかった。だから友香はここ数日、明星からの連絡を必死の思いで無視し続けていたのだ。
「最近ずっと既読スルーだし、学校でも全然会えないから、本当に心配したんだよ?まだ顔も青白いし、ケガ、まだ痛むんじゃ……」
明星が心配そうに歩み寄ってくる。だが、友香の頭を支配したのは、言いようのないパニックと激しい強迫観念だった。
——だめ……見られたら、玲に見られたら、明星が殺される!
友香は恐怖に引き攣る目で、瞬時に廊下の左右を往復するように見回した。廊下の曲がり角から、玲が来そうな気がした。向こうの校舎の窓もざっと見渡す。あの何でも見通す様な視線が自分たちを凝視していないか、心臓が限界を迎えそうなほどに激しく波打つ。
今は誰もいない。けれど、一秒でも早く、この人目を避けなければならなかった。
「……っ!」
友香は明星の返答を待たず、彼女の体を強引に美術室のドアの向こうへと押し込んだ。驚く明星と共に室内に滑り込むと、友香は即座に重い扉を閉め、内側から金属製の鍵をガチャリと、音を立てて閉めた。
「ど、どうしたの? 急にそんなに慌てて……」
まだカーテンも開いてない薄暗い美術室で、明星は不思議そうに目を丸くしていた。友香は激しく呼吸を乱しながら、ドアに背中を預けた。もう、涙を堪えることなんてできなかった。
ボロボロと溢れ出す涙を拭うこともせず、友香は消え入りそうな声で、けれど必死に明星に訴えかけた。
「明星……私と、学校で話しちゃ……だめ……」
「え……?」
明星の瞳に、ショックを受けたような、ひどく寂しげな色が走った。
「え……ええ?どうして……?友香……もしかして、私のこと、嫌いになった……?」
その言葉は、友香の胸をナイフのように鋭く抉った。嫌いになるはずがない。あのカーストのどん底で、自分の絵を初めて心から認めてくれて、東京でのルームシェアという眩しい夢をくれた、友香のたった一つの、本物の……「灯り」。
「違う!大好き!大好きだよっ!」
堰を切ったように、魂の本音が友香の口から飛び出していた。
「……ッ、友香……。ど、ド直球……過ぎるよ……」
不意の言葉に、明星は一瞬だけ驚いたように顔を赤らめた。
「あ……もちろん、友達として、だけど」
友香は両手で涙を拭いながら、そんな不器用な弁解を重ねた。
明星は一瞬だけきょとんと目を丸くしたが、すぐに嬉しさを堪えきれないように、小さく吹き出した。それから、いつものようにどこまでも優しく、包み込むような笑顔を浮かべる。
「わかってるよ。でもさ、友香にそんなストレートに『大好き』なんて言われたら、照れるけど……やっぱり、めちゃくちゃ嬉しいな」
明星はそう言って、友香の両腕を掴み、きゅっと力を込めた。その瞳はすぐに、年上の先輩としての真剣な色を帯びる。
「でもね、友香。あんたの目が、全然『大丈夫』って言ってない。学校で話しかけちゃだめだとか、私のことが嫌いになったわけでもないのに、どうしてそんなに怯えてるの?
な、なんがたげ良ぐねごとに巻ぎ込まれじゃんだが?(君、何かとても良くない事に巻き込まれてるの?)」
心配のあまり、明星の口からぽろりと故郷の訛りがこぼれ落ちる。
話してしまいたかった。何もかも打ち明けられたら、どれほど救われるだろう。
けれど、もし真実を口にすれば、明星は雨宮玲に対し、何か行動を起こすだろう。しかし逆に、玲という怪物の刃が、間違いなくこの大好きな明星にまで向けられる。それだけは、友香の命に代えても防ぎたかった。
「ごめん……言えない。絶対に言えないの……。もうこれ以上、誰も巻き込みたくない……っ」
友香の頑なな態度に、明星が小さなため息と苦笑いを浮かべる。
「……わかった。友香がそこまで言うなら、今は無理に聞かない」
「え……?」
「その代わりさ……」
明星はイタズラっぽく微笑むと、自分の画材バッグをあさり、一瞬だけ照れくさそうに一枚のカラフルな招待券を取り出して、友香の目の前に突き出した。
「突然のクイズです!今度の日曜日、県立美術館で何が始まるでしょうか?」
「え……?美術館主催の……展示イベント……」
友香が涙を拭いながらその紙を見つめると、そこには美術展覧会の文字が躍っていた。
「そう!前々から友香と一緒にそのイベントに行く約束してたけどさ。覚えてる?」
「うん……」
友香が頷く。
「私の絵がさ、今度そこで展示されることが正式に決定したんだ!まだ友香にも見せてない、本当の新作!」
「明星の、新しい絵……?」
「そう。まあ、メインギャラリー脇の小さい展示室だけどね……。大学の推薦に必要な自由課題の提出作品だったんだけどさ。
実はね、その推薦、無事に合格して、大学も正式に決まったんだ!」
「え……!明星、大学、決まったの……?」
驚きに目を見張る友香に、明星はこれ以上ないくらい誇らしげで、温かい笑顔を返した。
「うん!だからね、その絵は私を合格に導いてくれた、とっておきの一枚なの!友香に言われた言葉が嬉しくてさ、私が今描ける、いっぱいの『光』を詰め込んで描いた絵だよ!」
明星は、友香の瞳の奥に、ほんの少しだけ生気が戻るのを見逃さなかった。
「見たく……ない?」
「見たい……すごく、見たいよ……でも……」
明星は少し安心した様な笑顔を見せ、そしてあらためて友香に言う。
「友香?もしも……私がこれから友香に関わる事で何か悪い事が起きたとしても、それは絶対に友香のせいじゃない。私の人生には絶対に友香が……」
そこで明星は言葉を一度区切り、友香の両腕を掴む手に、さらにぎゅっと力を込める。そして、友香の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「絶対に、友香が必要なんだよ。あんたのあの絵に出会って、あんたと一緒に夢を語り合うようになって、私、初めて自分の描きたい本物の『光』がわかった気がしたんだ。
だから、これから先、何が起きたって私は友香を恨まないし、出会えたことを絶対に後悔しない」
一度引いた涙が、再びこぼれた。
この人を守るためなら、友香は自分の全てを差し出しても構わない。
そう思えるほどに、目の前の先輩が愛おしかった。
「……だから、日曜日、私の絵を見に来て。約束、してくれる?」
その真っ直ぐな温かさに、友香は喉の奥をきゅっと締め付けられながらも、静かに、深く頷くしかなかった。




