第六十七話 透明の檻 漆黒の檻
読み終えた指先が、氷のように冷たくなっていた。瑞希の日記に綴られていたのは、友香に対する憎悪だった。しかし、それは友香にとって然程重要では無かった。ある程度、覚悟して読んだからだ。
それよりも、戦慄が走ったのは、友香の知っているこれまでの「日常」の裏側で進行していた、俄には信じがたい「真実」の記録の方だった。
まず胸を突いたのは、言いようのないA・Hに対する違和感。
瑞希の日記の書いてあるままを受け取ると、そのA・Hと、雨宮玲が同一人物と言う事になる。
——玲が、今の玲である前に、誰か別の存在だったというの?
友香は、自身の解釈を心の中で反芻してみるが、まるで現実感が無い。しかし、自分の読解力を疑う余地はなかった。瑞希自身がそうとしか思えない書き方をしてるからだ。
——アップデート?
——次に会うときは自分が自分じゃない?
それぞれの言葉を「理解」はできるが、「納得」がまるで追いつかない。
しかし友香自身、瑞希と共通の体験をしている事に気付く。
あれは、初めて玲が友香の家に遊びに来た日のこと。
彼女は、誰もいない隣の空間を指差して、
「こちらは日向あかり。まあ、私の相棒みたいなものかな?」と紹介した。
——日向……あかり……イニシャル……A・H?
日記に散りばめられた、得体の知れないパズルのピースが、友香の経験と妙に合致していく。
それは最初、玲なりのジョークか照れ隠しか何かだと思っていたし、後になって、玲のイマジナリーフレンドと結論づけた。
けれど、もしも、その「あかり」という存在が、かつて本当に実在していたのだとしたら……?
そして、瑞希を「完成させてあげる」と言い、SNSのフォロワー数の増加や、炎上による誹謗中傷の消去。そして友香への……排除。
その全てを手助けした人物が「アップデート」により、今の玲の精神へと交換を完了させた。そんな、デジタル的な存在が本当に実在していたのだとしたら?
自分でも何を考えているのか分からなくなってくる。できれば全部、瑞希の生涯最後の大がかりな冗談だったとした方が、まだ頷けるくらいだ。
しかし、日記に刻まれた瑞希の悲鳴のような言葉たちが、どうしてもそうは思えないことを物語っている。
そして……友香は一番、辿り着きたくない結論を求める事に、抗うことができなかった。
ドッジボール大会、決勝戦。
あの時、玲は「瑞希は、友香がやっつけるんだ」と言って、友香にボールを託した。
「ぶちかませ!」と笑った彼女の瞳に、友香は一点の曇りもない信頼を感じていた。きっと玲は自分に瑞希を打ち破らせることで、失った自信を取り戻してほしいのだと、そう信じて疑わなかった。
けれど、この日記を読んだ後では、あの言葉の意味が全く違って聞こえる。
二人は、あの試合にお互いの……「命」を賭けていた?
あの時、本当に玲が言いたかった事。
「やっつけろ」「ぶちかませ」は、きっと……。
——瑞希は、友香の手で殺すんだ。
「ひっ……!」
思わず、瑞希の黒いスマホを手で払った。スマホは机から勢いよく飛んで、カーペットに転がっていった。
玲は最初から、瑞希を社会的に、そして物理的に「消去」しようとして、そして……。
——私に、瑞希ちゃんの命を奪う、最後の一押しを……させた?
アンダースローで放ったあの一投。瑞希の手を弾いたあの瞬間の感触が、呪いのように手のひらに蘇る。
勝利の直後、玲に体を持ち上げられた、あの最高の瞬間に棘の様に刺さった「説明のつかない罪悪感」。その正体がわかった気がした。これだ、これだったのだ。
——私が……私が……瑞希ちゃんを……殺した……?
「嘘だ……嘘だ……あ……」
息が吸えない。
胃がねじ切れるように痛む。
次の瞬間、耐え切れず机の下のゴミ箱を抱え込んだ。内側からせり上がってくる吐き気に耐えられず、友香はゴミ箱に、胃の中のもの全てを吐き出した。
涙と嘔吐物で視界が歪む。
なんで?玲は一体何なの?自分の元に現れた救世主のような顔をして、その実、チェスの駒を動かすように人の命を奪う。
あのドッジボールの決勝は、瑞希達が勝ってもおかしくない試合だった。もしもあの時、友香がアンダースローを外していたら、それだけで決着がついていたはずだ。
その時は、玲の方が命を落としていたかも知れない。
自分の命を天秤にかけているあの状態で、あんな無邪気に微笑むことができるなんて、正気の沙汰じゃ無い。
「嘘だ……やっぱり嘘だ……瑞希、ちゃんの……嘘だ……」
そう思いたかった。
そして、友香は何とか立ち上がり、本棚に立てかけているスケッチブックを開いた。そこには、一人の少女が描かれていた。玲だった。一度、玲がここに遊びに来たその日の夜に描いたものだ。
これを描いた時に、とても苦労した事を思い出す。
それは玲の姿を思い出し、デッサンをしてた時の事。
玲には人としての「揺らぎ」がほとんど無い事に気付いたのだ。
どれだけ静止している人間でも、生きている限り、そこには無数の「揺らぎ」がある。まばたきの瞬間の微細な視線のブレ、呼吸に合わせた小鼻のわずかな広がり、感情の起伏によって左右非対称に引き攣る口元の筋肉。
そんな生きた「揺らぎ」をどの様に描き、どのように描き写すのか?それも創作の醍醐味の一つだ。だが、玲にはそういった人間的なものが、ほとんど見当たらなかったのだ。
描きやすいと言えば描きやすい、しかし、それは友香にとって底知れない違和感だったのを覚えている。
皮肉な事に、友香のこれまでの経験が、瑞希のこの日記が真実であることの裏付けとなっていた。
——私も……駒の様に、動かされたんだ……
怖い。心の底から玲が……怖い。底知れぬ恐怖が這い上がってくる。
——なんで?なんでそんなことができるの……?
友香は、自分が瑞希による「透明の檻」から救い出されたと思っていた。しかし実は、誰の目にも見えない「漆黒の檻」に、ただ移送されただけだったことに、ようやく「理解」と「納得」ができた。
友香は自分のベッドで布団を被り、自分を抱きしめるように丸くなった。布団の中は充分温かいはずなのに、ガタガタと震えが止まらなかった。
「私が何とかできる様な……事じゃない……」
どこか近くで、今も玲が自分のことを見ているような気がした。
一睡もできないまま、気付いたら、翌朝になっていた。
学校を二日連続で休むわけにはいかなかった。これ以上休めば、母親が良い顔をするはずがないからだ。洗面所の鏡を覗き込むと、病み上がりの顔に、さらに生々しい青白さが上乗せされている。
重い足取りで登校し、教室のドアを開ける。
「おはよう!友香!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、玲だった。 背中から呼びかけられ、思わずビクッと体が震えた。一瞬だけ、玲の方をチラリと見たが、すぐに目をそらした。
あの放課後の階段で、玲を突き落とそうとした激しい罪悪感と、瑞希の黒いスマホから知ってしまった得体の知れない恐怖。そして、知らぬ間に瑞希の死に加担させられた不意打ちへの怒り。
友香の胸の中で複雑な感情が激しくせめぎ合う。
それでも、引きつりそうな喉の奥からどうにか声を絞り出し、「おはよう」とだけは返せた。
「オッス!」
そこへ、田中がいつものように気軽な調子で、挨拶をしてきた。
——だめ、来ないで!
心の中で懇願する。この瞬間も、玲はあの澄んだ瞳の奥から、言いようのない眼光で自分たちをきっと監視している……。
友香の願いは叶わず、田中は友香の肩に手を置いた。玲の冷酷な顔が真っ先に脳裏に浮かび、友香は恐怖のあまり、田中の手に触れることも、言葉を返すこともできず、ただ無視を決め込むことしかできなかった。
戸惑う田中の視線から逃れるようにして、友香は自分の席へと急ぐ。 その途中、湯沢と一瞬だけ目が合った。だが、友香の方からすぐに視線を逸らした。
保健室の前であれほど「私が、なんとかしてみせるから」と約束したのに、今の友香には、その約束を守れる強さなど残っていなかった。
そもそも、湯沢の言った通りだった。瑞希の命を終わらせたのは、自分だったのだ。
その罪悪感は凄まじく、そして今はただ、玲が怖くて、怖くて仕方がなかった。
これ以上、誰も巻き込みたくない。自分のせいで、誰かが瑞希のように壊されるのを見たくない。でも、玲に立ち向かう事なんてできない。
もう、どうすればいいいのかもわからない。
友香の胸の中で、その戦意は完全に喪失していた。
――また、一人になりたい。
――誰とも話さず、誰からも話されず、一日を終えたい。あの孤独で、けれど安全だった頃に戻りたい。
それだけを強く願いながら、友香はその週を、自ら選んだ絶対の孤独の中で、たった一人で過ごす決意をした、はずだった……。




