第七十話 友人
友香は駅に辿り着き、午前七時五十分発の電車に乗った。県立美術館には一時間ほどで着くだろう。
電車のシートに身を預け、ガタン、ゴトンと揺られながら、友香は目を閉じた。明星の言う通り、今日はただ絵を見ることを楽しみに、余計なことは考えない様にしよう。
美術館に行くことは、玲にも、田中にも、佐藤にも知らせてはいない。だからきっと大丈夫なはずだ。少し、心配しすぎなだけかも知れない。そう、自分に言い聞かせた。
やがて電車は目的の駅に到着し、友香はホームに下り立つ。冷たい冬の空気を吸い込みながらしばらく歩くと、森林に囲まれた、モダンな美術館の建物が見えてきた。
正面入口から中に入り、明星から貰ったカラフルな招待券を受付に提示する。
メインギャラリーには、様々な絵画や彫刻が一定の距離を置いて並んでいた。そのどれもが美しく、見ているだけで友香の心は躍った。
作品の下に書かれた説明書きを丁寧に読み、これを描いた、または創った作者たちのそれぞれの思いや情熱、人生の体温を感じ取る。
作品を通して誰かの魂と対話するこの時間は、友香にこれまでの息苦しい地獄のような苦悩を、つかの間だけ忘れさせてくれた。
一通り見終えた友香は、大展示室から少し離れた、静かな場所へと向かう。
そこは、数点の絵画だけがひっそりと並べられた、小さなギャラリーだった。
足を踏み入れた瞬間、一点だけ、他のどの絵画とも異なる、明らかに異彩を放つ作品が、友香の目を奪った。
「あった……」
友香の口から、自然と呟きが漏れた。
それは吸い込まれるような光の粒子が、何層にも重なり合う見覚えのある絵のタッチに、さらに深い透明感を持って迫ってくる、息をのむほど美しい絵画だった。
そこに描かれていたのは、一人の少女。
光に満ちあふれ、風と楽しそうに会話しているようで、あどけなさがあり、けれどその姿には、何ものにも屈しない凛とした強さが秘められていた。
「どう……かな?」
不意に、少し離れたところから聞き覚えのある、柔らかく、温かい声が聞こえてきた。
ピンと来た、明星だ。
驚いてそちらを向こうとした友香を、明星は静かな声で制止する。
「そのまま動かないで、絵を見つめてて」
他人のふりをする。それが、前もって交わしていた二人の約束だった。自分からお願いした提案を忘れそうになっていた友香は、慌てて正面の絵画に視線を戻す。
視界の端で、二メートルほど離れた『隣の絵画』の前に、明星が他人のふりをして立っているのがわかる。
正面の絵を見つめたまま、友香は震える声を絞り出した。
「すごく……綺麗。本当に明星の全てを詰め込んでるのがわかる。明星の絵は全部好きだけど、これは……これは、その中でも特別。とても温かくて、とても尊い。このまま、ずっと見ていたい」
友香の嘘偽りのない本音に、隣からかすかに吐息の漏れた音が響き、小さく「ありがとう」という声が届いた。
「この絵のタイトル、見てみて」
言われるがまま、友香は少しだけ視線を下ろした。額縁の下に貼られた小さなプレート。そこには、こう記されていた。
『友人:木花明星』
ハッとして、友香は思わず隣に立つ明星の横顔を見た。明星はやはり正面の絵を見つめたまま、他人のふりをして、けれど愛おしそうに静かに言葉を続ける。
「そう、この絵のモデルは友香、あんたなんだ……。だから、今日はどうしても本人に見て貰いたかったの」
「私……が、モデル……?」
これほどまでに美しい、光あふれる世界の中に、彼女は自分を描いてくれていた。明星は、このとっておきの一枚を描き上げ、美大の推薦を勝ち取ったのだ。
友香の胸の奥が、ぎゅっと熱く締め付けられる。
「ありがとう、本当に……嬉しい」
友香の目に、今日何度目かの涙が伝う。
「私も……、私も……こんな素晴らしい絵を、描きたい……」
友香がそう言うと、明星がホッとしたように小さく息を吐いたのがわかった。
「……その言葉を待ってた」
「え?」
「電話でさ……絵を描くことも辞めるなんて言うから、私、本当に思ったんだ。もったいない!って。でも、良かった。友香の口から、またその言葉が聞けて……。
|まんず安心したじゃ~!《すごく安心したよ》」
明星が語尾に津軽弁を混ぜる。
「友香と出会えたから、私はこの絵を描けた。おかげで何とか合格に引っ張ってもらえた」
「それは……全部、明星の力だよ……」
「ううん、絶対に私だけじゃ無理だった。友香……友香が何に悩んでるのか、迷ってるのか、正直わからないけど、今度は私が、友香を前へ引っ張っていく番。
だからさ、私は東京にいくけど、約束だよ!例え友香がどんな道を歩くとしても、絵を描くことだけは絶対に諦めないで」
「明星……」
明星はチラッと一瞬だけ友香を見つめ、ニコっと微笑む。友香も明星の方を向き、笑顔を返した。
それからしばらくは、とりとめもない会話が続いた。
しかし、友香が再び体中に悪寒を走らせるのに、それほど時間はかからなかった。
「あ、そういえばね、友香。さっき、雨宮玲さんと……男の子が、この美術館に来てるのを見かけたんだ」




