第六十二話 瑞希の宝物
罪悪感が、冷たい電流のように友香の体中を突き抜けていた。
自宅のベッドに仰向けになり、天井を見つめながら、友香は自分の両手を目の前にかざした。指先は、今も微か《かす》に震え続けている。
結局、玲を階段から突き落とすことはできなかった。
人を殺め、犯罪者にならずに済んだという安堵の半面、その選択は、玲という怪物の支配がこれからも続き、田中や佐藤が次の犠牲者になるかもしれないという恐ろしい未来を肯定したに等しかった。
学校の屋上で、湯沢に対して「私が、なんとかしてみせるから」とあれほど威勢良く、覚悟を決めたように言っておきながら、いざとなると決定的な一歩を踏み出せなかった己の弱さと中途半端な偽善が、情けなくて仕方がなかった。
押し寄せる泥水のような罪悪感から逃れるようにして、友香はきつく目を閉じ、思考の焦点を強引に「瑞希が遺したもの」へと切り替える。
——神社の裏の、壊れた物置小屋。そこに、瑞希ちゃんは、私に何かを託した。
いつまでも部屋で怯えているわけにはいかない。自分にできることを、一つずつやっていこう。友香は震える体を両手で押さえ、決意を新たにした。
翌朝、友香は重い体を起こすと、リビングにいる母親に「背中の傷が痛んで、思うように動けない」と告げた。学校に行けそうにない、という友香の言葉に、母親は手を止めて怪訝な表情を浮かべた。
「え?でも、だんだん動けるようになってきてたじゃない。本当に?」
その瞳には、せっかく玲が「一緒に公務員になろう」と言う、素晴らしい未来の計画書をくれたのに、ここでこれ以上欠席が増えると、学校の評定や調査書に響くのではないかと言う微かな不満も垣間見えた。
「……うん、ごめんなさい。今日一日だけ、横にならせて」
友香が消え入りそうな声で懇願すると、母親は小さくため息をつき、「じゃあ、今日は休みなさい。お昼は何か冷蔵庫にあるものを適当に取って食べてね」と言い残し、バタバタと忙しそうに仕事へと出かけていった。
静まり返った家の中。部屋の窓から、住宅街の細い道を歩く母親の背中が完全に遠ざかるのを見届けてから、友香は静かに身支度を始めた。
背中が痛くて動けないというのは、半分は母親を納得させるための嘘だったが、もう半分は紛れもない真実だった。昨日、無理をしすぎたせいか、少しでも上体をひねると、背中の傷の奥に引き裂かれるような痛みが走る。
目的地である神社は、家からそれほど遠い場所にあるわけではなかった。しかし、満身創痍の今の友香にとっては、果てしなく遠く、過酷な道のりに思えた。
一歩一歩、痛む体を引きずるようにして、冷たい空気の中を歩く。寒風に耐える家々を眺めていると、胸の奥から何とも言えない懐かしさが込み上げてきた。
かつて、瑞希と本当に仲が良かった小学生の頃。あの頃は、スクールカーストも、誰かの悪意も、SNSの残酷な書き込みも、何一つ存在しなかった。
ただ絵を描くのが好きで、お互いの存在が当たり前で、何のしがらみもなく、笑い合いながらこの道を駆け抜けていたのだ。もう二度と戻らない、眩しいほどに透き通った日々。その喪失感が、友香の心を寂しく吹き抜けていった。
ようやく神社の境内にたどり着き、友香は誰の目にも触れないよう、静かに本殿の裏手へと回り込んだ。生い茂る木々の奥に、朽ち果てた木造の物置小屋がぽつんと佇んでいる。
周囲を慎重に見渡すと、古い小屋の土台の隙間に、一箇所だけ土が不自然に掘り起こされ、新しく埋め直されたような跡があった。スコップなどの道具は持ってきていなかった。友香は辺りを見回し、手頃な太さの、硬い枯れ枝を一本拾い上げた。
膝をつき、背中の痛みに耐えながら、泥混じりの土を枯れ枝で少しずつ掻き出していく。
カサ、ファサッ……。
しばらく掘り進めたとき、湿った泥の奥から、枝先が擦れるような、確かなビニールの摩擦音が響いた。
「あった……」
友香は枝を放り出し、泥で汚れるのも厭わずに、両手で丁寧に土を退けていった。何重もの頑丈なビニール袋に包まれた、ずっしりとした重みのある塊が、湿った土の中から姿を現す。
近くの水飲み場へと向かい、冷たい土で泥だらけになった両手を洗った。かじかむ指先で、慎重にビニール袋の口を開いていく。
少し大げさなくらいの防水処理を施されたその内側から、鈍い光沢を放つ、一台の黒いスマートフォンが姿を現した。
そして、スマホに添えるようにして、四つ折りにされた一枚の白いメモ用紙が出て来た。そこにはこう書かれていた。
『絶対にネットには繋がないで』
自宅へ戻った友香は、取り出した黒いスマートフォンを机の上に置いた。
電源ボタンを押し込んでみたが、画面は暗いままで反応しない。すでに完全に充電が切れてしまっているようだった。
友香は、自分の使っているスマートフォンの充電コードを手に取った。端子の形状は幸いにも同じだった。しばらく経った頃。友香は、じっと見つめていた液晶画面が十分に起動できる状態になったのを確かめ、再度電源ボタンを押し込んだ。
画面が明るくなり、無機質なシステム起動のロゴを経て、パスワードの入力画面が表示される。
友香は、スマホと一緒に包まれていたあの白いメモ用紙を広げた。泥で少し汚れた紙の余白には、瑞希の筆跡で、
『0110』
と、四桁の数字だけがぽつんと書き残されていた。
友香は息を止め、画面の数字を一つ一つ、慎重にタップした。
0、1、1、0。
ロックが解除され、画面が切り替わる。その瞬間、画面中央に「利用可能なWi-Fiネットワークがあります。設定を行いますか?」というポップアップメッセージが表示された。
——繋いじゃだめだ……!
背中に冷たい汗が噴き出すのを感じながら、友香は「キャンセル」のボタンを即座にタップし、瑞希の警告に従う。
ポップアップが消え、通常のホーム画面が露わになる。表示されたホーム画面は、瑞希の所有物にしては驚くほど殺風景だった。一般的な高校生が使うようなSNSも、流行してるアプリも、派手なゲームも、カスタマイズされたウィジェットも何一つない。
インストールされているアプリは極端に少なく、まともに中身が見られそうなものは、フォルダの隅に置かれた「メモ」アプリくらいのものだった。
友香は息を詰め、その黄色い「メモ」のアイコンをタップした。
一覧を見ると、タイトルに日付が書かれたデータがいくつか保存されていた。その一番上には「友香へ」と書かれたものがあった。それを開くと、液晶の冷たい光の中に、瑞希が書き残したのであろう、生々しい言葉が浮かび上がった。
『友香へ。
これを見つけたってことは、私はもう、既にこの世にはいないのかも知れない。それは仕方無い。これからあんたに、ある「真実」を伝えようと思う。信じられないかも知れないけど、これは嘘じゃない。
私が実際に体験した事。でも、もう誰にも伝えられない事。
だからあんたにだけ伝える。て言うか、あんただけにしか伝えられない。
じゃあ、読んで』
「瑞希、ちゃん……」
液晶画面を見つめる友香の瞳が、恐怖と戸惑いで細かく揺れる。自分をカーストの底に突き落とし、透明人間として扱い続けた、かつての親友。
けれど、死の間際に自分にだけこの端末を託した彼女の意図が、どうしても掴めない。不審と、言葉にできない不穏な予感に胸を締め付けられながらも、友香はもう引き返せないことを悟っていた。
震える指を画面に付け、友香は次のページへとスクロールする。そこに綴られていたのは、水谷瑞希という少女の、おぞましい記録だった。




