第六十一話 決意
どこか心配そうに見つめる湯沢に対し、友香は無理矢理に笑顔を作った。
「じゃあ、先に行ってるね……」
そして屋上を後にした。張り詰めていた緊張が解けた途端、冷え切った身体に、背中と左肩の痛みが強烈な現実感を持って蘇ってくる。
一歩、階段を降りるたびに、膝がガタガタと頼りなく震えた。
その階段をようやく半分ほど降りたとき、下から騒がしい足音が響き、踊り場に一人の女性が息を切らせて現れた。
「あ!いた!」
保健医の山本だった。友香の姿を視界に捉えた瞬間、山本の顔に明らかな焦りと怒りの色が浮かぶ。
山本は鋭い声を上げ、階段を駆け上がって友香の前に近づいて来た。
「汐見さん!探したわよ!急に保健室から許可無く出ていっちゃ駄目でしょ!」
怒り口調の問い詰めが、狭い階段の壁に反響する。
無理もない。背中に深い傷を負った病み上がりの生徒が、急に保健室から姿を消したのだ。下手をすれば山本の責任問題にもなりかねない。
責められて当然だった。けれど、今の友香には、言い訳を並べるだけの気力すら残っていなかった。ただ、小さく俯くことしかできない。
「す、すみません……」
それだけを、蚊の鳴くような声で吐き出した。山本がさらに言葉を重ねようと口を開きかけた、その時だった。
「私のせいです」
友香の後ろからゆっくりと階段を降りてきた湯沢が、遮るように静かに言った。
山本が驚いて湯沢を見上げる。湯沢の顔はまだ涙で濡れていて、制服もどこか煤けており、ところどころ解れている。
「私が……授業をサボって、屋上に一人でいたところを、汐見さんに見られて、怒られました。彼女、まだケガが完全に治ってないにも拘わらず、私のために、一生懸命に怒ってくれたんです」
湯沢は、友香の横に並び立つと、山本に向かって深く、深く頭を下げた。
「すみません。汐見さんはまだ具合が悪そうなので、もう少し保健室で休ませてあげて下さい。お願いします」
友香は湯沢を驚きの表情で見つめた。それまでクラスの「女王」だった瑞希の隣で、友香を一緒に無視し、冷笑していた湯沢。そんな彼女の口から出たとは思えない言葉だった。
それは友香を陥れるための嘘でなく、友香を守るための、嘘。
「そ、そうなの……?」
事情を飲み込みきれない山本だったが、湯沢のただならぬ真剣な様子と、友香の今にも倒れそうな青白い顔を見て、それ以上の追及を諦めた。
山本は歩み寄り、友香の華奢な背中をそっと手のひらで支える。
「じゃあ、あなたも手伝って」
「は、はい……」
湯沢が小さく応じ、友香の反対側に回って、その身体をそっと支えた。それは、玲に握られていた時の、あの凍りつくような、粘りつく嫌悪感を伴う温もりとは違う様に感じた。
湯沢の手のひらは、罪の意識を共有した者同士の、どこかぎこちなく、どこか泥臭い、そしてどこか人間くさい温かさがあった。
三人は無言のまま、ゆっくりと長い廊下を歩き、保健室へと戻った。
保健室の入り口にたどり着くと、山本が湯沢に向き直る。
「ありがとう。じゃあ、あなたは教室に戻ってね。もう汐見さんに心配かけないように」
「はい」
湯沢が短く答える。
友香はベッドへ入る前、そっと湯沢を見やった。湯沢もまた、友香を見返した。その視線の交錯の中に、交わされる言葉はなかった。
湯沢は無言のまま、一度だけ軽く頷いた。
そして、すっと背を翻すと、後は振り返ることなく、自分の教室へと戻っていった。
そして、その日の放課後……。
しんと静まり返った校舎。友香のその足取りは想像以上に重かった。
——玲を放っておけば、これからも多くの犠牲者が出るだろう。
水谷瑞希がビルから飛び降りたあの日。玲が友香に向けて放った言葉。そして、瑞希が落ちる直前に玲が浮かべた、あまりにも冷酷な言葉。
『良かった。これで……やっと友香の敵がいなくなるね』
玲は、自分にとっての「正解」のためなら、人の命すらチェスの駒のように奪う怪物なのだ。湯沢も、自分が偶然学校の屋上を見なければ、今頃は命を落としていたはずだ。
そして、その矛先は、さらに友香の大切な人たちに向けられつつある。
佐藤めぐみが友香に優しくノートを差し出した時も、田中麻里奈が気軽に肩を組んで話しかけてきた時も、友香は気付いていた。
玲が、その様子を、言いようのない突き刺す眼光でじっと凝視していたことを。
一見、田中、佐藤、玲の三人はこれまでも仲良くやっている様に見える。おそらくそれは、しばらく友香が学校にいなかったから。
しかし、友香がここに再び現れた途端、あの二人の優しさは、玲にとってはもはや「自分以外の人間が友香に触れる不快なノイズ」に過ぎなくなっているのかも知れない。
放っておけば、いずれ田中も佐藤も、瑞希と同じように玲の歪んだ正義の餌食になってしまう恐れがある。玲が他にどんな弱みを握っているかわからないのだから。
いつ二人に「排除」と言うトリガーが引かれてもおかしくない。
それは火を見るよりも明らかだった。
——私自身が、止めなければならない。これ以上、玲の手で犠牲者を増やさないために。
その日の放課後……。
友香は一人、職員室から玲が出てくるのを静かに待ち伏せていた。
これから自分がしようとしてる事を思うと、たった数分がひどく長く感じた。
やがて、聞き慣れた軽い足音が廊下に響き、玲の姿が階段の踊り場へと近づいてくる。玲が、ゆっくりと階段を降りようと一歩を踏み出した、その瞬間だった。
友香の身体が、頭で考えるより早く動き出した。忍び足で背後に近づき、震える両手をまっすぐに前に突き出して、その玲の背中へと近づいていく。
あと一押し。この手を玲の背中に触れさせ、突き落とせば、すべてが終わる。
佐藤も、田中も、湯沢も、玲の支配という名の檻から救われるはずだった。
けれど、玲の衣服の生地に、友香の指先が触れるか触れないかという、その刹那。
友香の脳裏に、洪水のように、これまでの玲との思い出がこみ上げてきた。
クラスの誰もが自分を無視し、「透明人間」として扱っていたあの地獄のような教室で、唯一、風のように友香の世界に入り込んで来てくれた玲の言葉。
「嫌かどうかは、私が決める事じゃない?」
的の中心にボールを当てられず、不甲斐なさに泣きそうになっていた夜の河原で、自分を包み込むように笑ってくれた玲の声。
「友香がいるだけで、私の力が十倍になってる!」
そして、病室で目覚めたとき、涙を流しながら言った言葉。
「よかった……本当に、本当によかった……。もう、大丈夫だよ、友香」
玲が怪物だとしても、友香をあの底なしの孤独から救い出してくれたのは、間違いなく彼女の行動だったのだ。
「——っ」
玲の背中に触れる直前、友香の両手は、虚空に触れたままピタリと止まった。
そこから、どうしても、その先にある背中を押すことができなくなった。
「雨宮ああああああ!!」
その時、静まり返った廊下を切り裂くように、田中の大きな声が響き渡った。
玲が「何!ポッピン」と言いながら横を向き、そのまま勢いよく後ろを振り返り、友香と視線がぶつかった。
「友香……?」
玲の目に宿ったのは、見たこともないような驚愕した表情だった。
その瞬間、友香は自分が今、何をしようとしていたのか、その殺意のおぞましさが一気に押し寄せ、全身をカタカタと激しく震わせた。
「玲……あ、ごめん、そんな、私……」
引きつった、泣き出しそうな声でそれだけを口にすると、友香は玲の横をすり抜け、足早にコンクリートの階段を駆け下りて逃げ去っていった。
田中が玲に何か声をかけていたが、振り返る余裕などなかった。ただ、一秒でも早く、玲から逃れたかった。
校舎を飛び出し、冷たい風の中で友香は自分の手を見つめた。
できなかった。友人を救うためだとしても、人を排除する悪魔になることなど、友香には到底、できなかった。




