第六十話 湯沢
保健室に入ると、保健医の山本は友香に二、三個質問し、手早く問診を始めた。その後、ベッドに横になるように言ってきた。
そして、
「授業が始まるから、あなたたちは汐見さんを置いて教室に戻りなさい」
と、心配そうに見つめる田中と玲の二人に言った。
玲が抵抗を見せたが、田中が軽くあしらって、二人はそのまま保健室を出た。
——助かった。
友香はそう思った。少しでも一人で落ち着く時間が欲しかった。
ふうっ、と一息ついた時だった。
山本が友香に話しかけた。
「あなたを心配して二人も付いてきてくれるなんて、いいお友達ね」
友香は山本に視線を向けると、ためらいがちに「はい……」と返した。
山本は友香にニコッと笑いかけ、ベッド専用のカーテンを閉めた。そして机に座り自分の業務を進めた。
友香は目を閉じ、これからの事を考える。
まずは、瑞希があの神社の物置小屋の軒下に隠した物。それを探さないといけない。
ずっと無視し続けて来た友香に、最後に渡すものとは一体何なのだろう?
他にも仲間はたくさんいるだろうに、なぜ自分なのか?
十五分程経過した頃、答えのない考え事を止め、友香は一度目を開く。そしてカーテンの隙間から少しだけ見える窓越しの景色を眺めた。そこからは、向かいの校舎の屋上がちょうど見えた。
友香はふと異変に気付く。屋上のフェンスに誰かが一人立っていた。スカートが風になびいている。女子生徒だ。
奇妙なのはその鉄製フェンスの前にスカートが見えている事だった。
ベッドから飛び起き、痛む背中を引きずりながら保健室を走り出た。
「あ!汐見さん!」と後ろから山本が叫んだが、気にする余裕はなかった。
まさか、まさか……!
嫌な予感が走る。
たどり着いた屋上。冷たい風が吹き荒れるフェンスの向こう、コンクリートの縁に、あの時と……瑞希の時と同じように、今にも風に吹き飛ばされそうな後ろ姿があった。
湯沢だった。
「湯沢さん……!ダメ、そっちに行っちゃダメ!」
友香の悲鳴のような叫びに、湯沢がゆっくりと振り返る。
その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃに汚れ、絶望に染まっていた。
「来ないで……!あんたに何がわかるのよ!アイツの言うとおりだった。瑞希が!瑞希が一番辛いとき、私は、何もできなかった……!あんたじゃなかった……私が瑞希を殺した様なものなの!」
湯沢の、血を吐くような自責の念。それを聞いた瞬間、友香の目からも涙が溢れ出した。
「わかる、わかるよ……、痛いくらいわかるよ!だって、私だって同じだもん!」
友香は一歩、また一歩と湯沢に近づく。
「ごめんね……私、今まで瑞希ちゃんの事忘れてた。ううん、あえて聞こえないように記憶から遠ざけてた。たぶん、本当の事を知るのが怖かったんだと……思う」
友香は自分の拳を握りしめる。
「でも、思い出したの。あの日、私は瑞希ちゃんと最後の会話を交わした。あの時、私が何かもっとうまくできていれば、瑞希ちゃんは死なずに済んだんじゃないかって、それを考えると……息もできなくなるくらい辛いの!」
友香は自分の胸を強く押さえた。
「瑞希ちゃんを失って、苦しくて、死んでしまいたいほど自分を許せないのは、あなただけじゃない。私も一緒なの!私とあなたは、同じく取り残された同士なんだよ!それでも、死んじゃダメなの!生きて……生きていくしかないんだよ……!」
「同士なんて、そんな仲間みたいな呼び方しないで!瑞希も私も……あんたを無視してたんだ。悪口だって書き込んだ!私もいなくなればさっぱりするでしょ!」
湯沢が狂おしげに叫び、さらに一歩、奈落の縁へと足を引く。
「玲みたいな事……言わないでよ……。もう嫌なの……!」
友香の叫びが、屋上の空気を引き裂いた。
「私の目の前で、誰かが私の手をすり抜けて、冷たい地面に落ちていくのを見るのは、もう絶対に嫌!あんなおぞましい音、もう二度と聞きたくない!お願いだから、湯沢さん、生きて、生きてよ……!」
喉を震わせ、懇願する友香。しかし、湯沢はただ悲しげに首を横に振るだけだった。
「でも、生きてたって……瑞希はもういない」
「さしねーーーーーーーーーーーーっ!!!!!」
その瞬間、友香の頭の中で、理性のタガが完全に外れた。湯沢を救いたい、死なせたくないという、魂の奥底からの「願い」が、取り繕った標準語をすべて吹き飛ばし、彼女の生まれ故郷の、最も泥臭い言葉となって喉から爆発した。
「死ねばまい(死んじゃだめ!)!すったはんかくせごどすなっ(そんな愚かなことをするな!)!あいだって、なが死ぬごどだの絶対望んでねぇはんで……っ!!(彼女だって、あんたが死ぬことなんて絶対に望んでないからっ!!)」
響き渡る、強烈な訛りを帯びた叫び。
一瞬、湯沢が呆気にとられた表情を見せる。
理由はわからないが、それは湯沢にとって、何よりも人間らしく、何よりも必死に自分を繋ぎ止めようとする「生の叫び」そのものに感じた。
湯沢はふと、自分の足下を見た。その先には今にも吸い込まれそうな地面が見える。
「ひっ!」
麻痺していた死への恐怖が戻って来る。そして、必死でフェンスをよじのぼり、友香のそばに転がりこんだ。
ハア、ハア、ハア……
荒い息をし続ける湯沢の肩に、友香はそっと触れた。
「良かった……戻って来てくれた……」
その瞬間、湯沢の目から大量の涙がこぼれ落ち、わーん、と子供の様な泣き声を上げた。
友香は湯沢を抱きしめ、一緒に泣き合った。
二人の感情がようやく落ち着いて来た頃、湯沢が友香に聞いた。
「ねえ……あんた、出身……どこなの?」
友香は少し照れながら「青森……」と答えた。
「ふうん……」とだけ湯沢が反応する。
「私……感情が高ぶると、思わず方言の津軽弁が出ちゃうみたいで……。湯沢さんを説得しなきゃいけないのに、意味わかんなかったよね?」
友香が申し訳なさそうに下を向く。
「正直……何言ってるかわからなかった……」
湯沢が答える。
「そう、だよね……」
友香が苦笑いを浮かべる。
「でも、何を言いたいかは伝わった」
「え……?」
友香が湯沢を見上げた。
「あんたが私を、必死で止めようとしてくれてるのだけはわかった。だから……飛び降りるのを止めた。まあ……本当はやっぱり怖かった、ってのもあるけど……」
そう言って、湯沢が照れ笑いとも苦笑いともつかない表情を浮かべる。友香も微笑みを返す。
「じゃあ……そろそろ教室戻ろっか?」
そう言って友香が立ち上がると、湯沢も頷き、立ち上がった。
まだ頭にフラつきが残り、よろけそうなのを湯沢が支えた。
「本当に、まだ病み上がりだったんだね……」
「あ、ありがとう。もう大丈夫、一人で立てるよ」
湯沢がそっと友香を放す。
「あの……教室で、ぶってごめん……」
湯沢が頭を下げる。
「ううん……いいの。あのおかげで私、瑞希ちゃんとの大事な約束を思い出せたから」
「約束……?」
「うん」
「そうなんだ……汐見と……瑞希が……」
湯沢は少し寂しげな表情を見せたが、深く聞いては来なかった。
「あ……湯沢さん」
友香が思い付いた様に湯沢に視線を向ける。
「何?」
「教室に戻ったら、今まで通り私に話しかけちゃだめ……」
「え?」
「これは湯沢さんのためなの!」
湯沢は少しびっくりした表情を浮かべたが、ハッと察した様に呟く。
「雨宮……なんだね……?」
友香は肯定も否定もしなかった。
「しばらくの間だけでいい……。目を付けられないように、目立たない様にしてて欲しいの」
湯沢が怪訝な表情を浮かべる。
「しばらくの間だけって……汐見、あんた何をするつもりなの?」
友香はためらいがちに、しかし、凜と答えてみせた。
「私が、なんとかしてみせるから……」




