第五十九話 その手
気を失っていたのは、ほんの一瞬だったらしい。
目を開き、一番始めに見えたのは教室の天井だった。
「あれ……私……何を?」
一人、友香がつぶやく。
そして次に見えたのは、玲の顔だった。
自分が玲に抱きかかえられているのを知った友香は、反射的に起き上がろうとした。
「無理しないで、友香!」
玲が心配の声をかける。
「もう……大丈夫だよ。ありがとう」
一刻も早く、玲から離れたくて立ち上がってみたが、言ってるそばから頭がフラつきバランスを崩した。
その時、支えてくれたのは田中麻里奈だった。田中はサッと友香の左腕を自分の肩にかける。
「大丈夫じゃないだろ……。このまま保健室行くぞ。雨宮、友香の反対側を支えてくれ」
玲が迅速に友香の右側に回る。
友香は玲と田中に両肩を支えられ、教室のざわつきから逃れるようにして、廊下へ出た。
背中の傷がズキっと痛み、呼吸も少し苦しく、肺もひどく冷たかった。けれど、肉体の苦痛以上に友香を苛んでいたのは、自分の手にまとわりつく、あの「温もり」だった。
玲が、友香の右手をずっと、狂おしいほど強く握りしめていた。
玲の微かな体温が、友香の皮膚を通してじわじわと伝わってくる。以前の友香なら、その温かさに心からの安堵を覚え、涙を流して感謝していただろう。
自分を地獄から救ってくれた、クラスでたった一人の優しい救世主。彼女の手を握り返すことこそが、友香のなすべき「正解」のはずだった。
なのに。今の友香の全身の細胞は、その掌が触れ合っている事実に、吐き気がするほどの嫌悪感を抱き、悲鳴を上げていた。
——触らないで
——お願いだから
——その手を離して
あの夕闇のビルの下で、一瞬振り返った時に見た玲の冷酷な笑顔。
そして、友香に向けて囁かれた言葉が何度も、何度もリフレインされる度に、心臓を冷たく突き刺す。
『良かった。これで……やっと友香の敵がいなくなるね』
あの時、玲は瑞希の死を望み、そして喜んでいた。恩人だと思っていた少女の、仮面の裏にある底知れない「狂気」を本能が察知した瞬間から、彼女の触れるすべてが生理的な嫌悪の対象へと変わっていた。
絡められた指先から、どす黒い粘液のような悪意が自分の体内へ流れ込んでくるような、おぞましい錯覚。引きちぎってでも、今すぐその手を振り払いたい。
けれど、友香は必死に理性をフル稼働させ、表情を、呼吸を、コントロールしようと血を吐くような思いで平静を装っていた。
ここで玲の手を弾けば、どうなる?
今朝のあの教室のように、玲は友香に対しては、また「条件反射だよ」等と笑って許してくれるだろう。
けれど、その歪んだ「優しさ」の裏で、彼女はまた、友香のあずかり知らぬ場所で、友香のために誰かを「排除」しようとするのではないか。
ドッジボール大会を一緒に戦った鈴木と伊藤に対する容赦のない糾弾。
友香に怒りをぶつけた湯沢に対し、少しの逃げる隙も与えないほど徹底した口撃。
そして……瑞希。
——玲を、刺激してはいけない。
「ああ、ごめん、大丈夫。後は一人で歩けるよ……」
友香は乱れる呼吸を必死に押し殺し、掠れた、けれどいつもの穏やかさを装った声で両隣の二人に語りかけた。でも視線だけは合わせられなかった。玲の方を向けず、ただ静かに床を見続ける。
「まだちょっとフラついてるぞ、お前、本当は今日、相当無理して来ただろ……」
友香の言葉を聞き流し、田中は友香の体を支え続ける。隣を歩く、ぶっきらぼうだが嘘のない心配の声。その言葉に救われるように、友香は小さく頷いた。
田中が肩に添えてくれている手の温かさは、ただひたすらに温かい「人間のもの」として感じられるのに。
なぜ、右手を握る玲の手だけが、これほどまでに冷たく、自分を締め付ける鎖のように感じられるのだろう。
「大丈夫だよ、友香」
耳を通り抜ける、玲のあの無垢で、寸分の曇りもない優しい声。それすらも、今ではとても無機質なものに感じた。
「う、うん……ありがとう、玲」
顔の筋肉を必死に動かし、消え入りそうな、けれど確かな感謝を宿した「作り笑顔」を浮かべる。
握りしめられた右手の指先が、恐怖と嫌悪で激しく痙攣しそうになるのを、友香は残されたすべての精神力で、ただ必死に、必死に抑え込んでいた。




