第五十八話 記憶
退院から三日後、久しぶりの登校となった。
教室のドアを開けるとき、友香の指先はかすかに震えていた。まだ左肩や背中には鈍い痛みが残っており、どこか、自分の頭に深くかかった「灰色の靄」が、現実感をひどく曖昧にさせていて、振り払えずにいた。
しかし、教室に入った瞬間、今までに無い温かなぬくもりに包まれた。
「友香!良かった、やっと戻ってきたんだな!」
「本当に心配したんだよ、友香!」
田中麻里奈と佐藤めぐみが、これまでになく明るい笑顔で駆け寄ってきた。かつて自分を邪魔者のように扱っていた彼女たちの、嘘偽りのない歓迎。その事実は、弱っていた友香の心を確かに救ってくれた。
「うん……みんな、ありがとう。お見舞いも来てくれてありがとう。本当に嬉しかった」
無理に作ったのではない、自然な微笑みが口元に浮かぶ。そのまま自分の席に向かい、座ろうとした。
そのとき。友香は、自分をじっと見つめる、ある一人の視線に気づいた。
——あれは……?
靄の向こう。机に座り、じっとこちらを見ている少女。確かに見覚えがあった。ずっと昔から、誰よりも自分の近くにいたような気がする。なのに、いくら頭に纏うそれをかき分けても、どうしてもその子の名前が思い出せない。
友香は吸い寄せられるように、その少女の席へと歩み寄っていった。
だが、あと一歩というところで、遮るような声が響いた。
「そこ、友香の席じゃない……」
声の主は、雨宮玲だった。玲のその言葉に、友香はハッと我に返った。気がつくと、さっきまでそこにいたはずの少女の姿はどこにもなく、ただの空席が取り残されていた。
「あ……そう、だね。なんでこの席に座ろうと思ったんだろう。私の席、あっちだもんね……?」
友香は戸惑いながら、窓際の本来の席へと移動した。田中が「友香もボケをかますようになったな」と引きつった笑いを浮かべ、クラスの不穏な空気を和らげようとする。
玲、田中、佐藤の三人が、友香の席を取り囲む。
「肩のヒビは?どうだ?」
田中が友香に聞く。
「まだ少し痛いけど、もう普通に動かせるよ。どちらかと言うと背中の傷の方が痛むかな……」
「んだよ!それじゃ、まだ完治じゃねーな。無理すんなよ」
田中は、どこかぶっきらぼうな態度を見せるが、その裏の優しさに友香は思わず嬉しくなる。
そして「うん、ありがとう」と返した。
「大丈夫だよ、友香。痛いのは今だけだからね。私といればすぐ治るから!」
そう言って玲が、いつもの笑顔で友香の細い肩に手を伸ばした瞬間だった。
パチンッ!
静まり返った教室に、乾いた音が鋭く響き渡った。友香が、玲の手を強く払い飛ばしていた。その光景に、田中も佐藤も目を見開く。
「あ、あれ?……玲、ごめんなさい。何だろう?……手が、勝手に……」
心臓が警鐘を鳴らすようにドクドクと早く脈打っている。
手が反射的に動いたのは本当だった。しかし、咄嗟に口から出たのは自分でも言い訳に思えた。それが完全に自分の意思じゃ無い、とは言い切れなかったからだ。
玲は、自分を底なしの地獄から救ってくれたヒーローの様なものだ。それはずっと忘れずに記憶に残っている。それは感謝してもしきれない。玲の差し伸べてくれた手を信じ、従うことこそが、自分にとって唯一の正解のはずだった。
なのに、それなのに、その手を弾いてしまった。
どこからか胸の奥から沸き上がる違和感と嫌悪感。そんな自分の気持ちに友香は戸惑っていた。
「いいよ、気にしないで。こっちこそごめん!まだ肩もちゃんと治ってないから、条件反射で防御しちゃったんだよ。きっと!」
玲は強ばった表情から、いつもの笑顔に戻っていた。そして友香に都合の良い様に解釈をしてくれた。
「うん……たぶん、そう…なんだと思う。ごめんね、玲」
複雑な感情を抱え、友香は自分の右手を見続ける。
その場の空気を変えるように、佐藤がにこやかに友香に話しかけた。
「授業のノート、取っておいたよ」とルーズリーフを差し出す。
「あ、ありがとう。すごく助かる」
友香自身も話題を変えようと、佐藤から受け取りながら、ふと教室内を見渡した。
「なんか……クラスの雰囲気が、前と変わった感じがするね」
その何気ない一言に、田中の表情がわずかに強張る。そして、口を滑らせるように呟いた。
「ま、まあ確かにそうかもなあ……瑞希がいなくなってから……」
瞬時に、佐藤が「あ~」と眉間に皺を寄せ、田中の腕を強く引っ張り、鋭い目で睨みつける。『その話はしちゃダメ!』という無言の制止。
けれど、友香の耳には、その『名前』が決定的な形を持って響いてしまった。
「瑞希……ちゃんが、いない……?」
脳の奥深く、水面に張った冷たい氷がパキリと割れる音がした。そこから溢れ出す記憶から、一つの名前が浮かび上がる。
——水谷瑞希。
そうだ……明星と共に忘れていた、もう一人の記憶。
自分を地獄に突き落とし、自分を縛り付けていた、かつての友。
友香は、先ほどの空席へと視線を戻した。
またそこに、靄の向こうに、瑞希が座っていた。いつもと変わらない、意地悪そうで、けれどどこか寂しげな笑みを浮かべて、こちらを見ている。
「なんだ、ポッピン……冗談言ったんだね。ビックリしちゃったよ。瑞希ちゃん、今日も学校に来てるよ。……ほら、あそこで笑ってる」
友香は、ほっとしたように微笑みながら瑞希の席を指差した。
その瞬間、教室内からすべての雑音が消え失せた。
田中も、佐藤も、玲も、一斉に友香が指差した瑞希の席へと顔を向けた。当然、そこには誰もいない。埃が陽光にきらめくだけの、ただの空っぽの机だ。
ゆっくりと、三人が友香の方へと視線を戻す。三人とも、見たこともないような「驚愕と恐怖の目」で、友香を凝視していた。
「友香、お前……その冗談はキツいって。あそこには誰も……」
田中の引きつった声が震える。その張り詰めた静寂を、机をバンッと叩く凄まじい打撃音が切り裂いた。一人の女子生徒が怒りに顔を紅潮させて詰め寄ってくる。瑞希の親友、湯沢だった。
「いい加減にしてくれる!?聞くに堪えないんだけど!」
湯沢は友香の机の前に立ち、怒りと憎しみを爆発させるように叫んだ。
「ねえ、あんた、どこまで瑞希を侮辱すれば気が済むわけ!?誰も言わないから私が言うけど、瑞希はもう、死んだの!この世にはいないんだよ!」
湯沢が何を言ってるのかわからなかった。
死んだ?この世には、いない?
今……そこにいる、でしょ……?
湯沢の怒号が、耳の奥で激しく反響する。友香は、縋るように瑞希の席をもう一度見つめた。
……いなかった。そこには、誰もいなかった。
「湯沢……友香が怖がってるじゃない……」
玲が湯沢の前に立ちはだかる。そして、穏やかな口ぶりから一転して、激しく湯沢を口撃し始める。湯沢はたちどころに表情を強ばらせ、青ざめて、最後には涙目になった。
「結局、あんたはさ、一番の親友だった瑞希を助けてあげられなかったから、その罪悪感を友香にぶつけて楽になりたいだけじゃないの?」
湯沢はすでに戦意を喪失している。終始、玲が優勢となったその口論も、すでに友香の耳には入っていなかった。
「瑞希ちゃんが……死んだ?」
今まで、心の奥底でせき止められていた「真実の記憶」は、今や濁流となって脳内になだれ込んでいく。
夕闇に染まる雑居ビル。風に吹かれ、屋上の縁で今にも消え入りそうに揺れていた、瑞希の細い影。「瑞希ちゃん!!」友香の叫び声も虚しく、落ちていくその刹那。一瞬だけ、確かに目が合った。その後……。
瑞希は……死んだ……。
それが、現実。
「違う……」
友香の唇から、それでも抗おうとする掠れ声が漏れた。
「違う……違う、そんなの……」
受け入れたくない思いと、迫り来る現実が激しく衝突し、友香の精神は限界に達しようとしていた。
だから、こう言うしか無かった。
「瑞希ちゃんは生きてる……」
——『ふふ、番号、変わってなかったんだ』あの時の、瑞希の穏やかな声。
「瑞希ちゃんは生きてる……」
——『最後に、友香と話したくなったの』中学以前に戻った様な、懐かしさのある声。
「瑞希ちゃんは生きてる……」
——『だって、約束だもの。仕方ないじゃない……』スマホ越しに聞こえた、怯え切った瑞希の声。
パチンッ!
突然、左頬に激しい痛みが走った。 視界が火花を散らしたように白く爆ぜる。
湯沢が、友香の頬を怒りに任せて思い切りぶったのだ。
玲がそれを見て、湯沢に掴みかかろうとする。
その玲を押しのけ、それでも友香は「瑞希ちゃんは生きてる……」と湯沢の前で言い続けた。
どうしても認めたくなかった……。
だが、湯沢にぶたれた強烈な「痛覚」が、やがて、友香の脳内に立ちこめる灰色の靄を強引に、そして完全に振り払った。
友香の言葉が止まる。
押し寄せてくる後悔と絶望、そして悲しみ。
もはや認めざるを得なかった。
瑞希ちゃんは……死んだ……。
そして同時に、友香の脳髄の奥底から、瑞希の最後の言葉が蘇る。
『あの、神社の裏の壊れた物置の軒下。あそこにね、私の宝物を埋めたの。』
そうだ、今まで忘れていた。かつて仲が良かった頃、秘密の隠れ家と称して神社の裏でよく遊んでいた。その、小さな物置小屋の軒下に瑞希は何を隠したのか?
それを、探しに行かなければならない。
さらに友香が思い出したのは、それだけではなかった。
瑞希が飛び降りる直前、雨宮玲が友香に向けて放ったひと言。
それが今、鮮明に思い出された。
『良かった。これで……やっと友香の敵がいなくなるね』
そこで友香の意識は途切れた。




