第五十七話 未来
ゆっくりと意識の底から浮上したとき、最初に視界に入ってきたのは、染み一つない無機質な白い天井だった。
鼻を突くツンとした消毒薬の匂い。かすかに、規則的な電子音が耳の奥で反響している。そこが病院の病室であると気づくまでに、少しの時間が必要だった。
起き上がろうとほんの少し体に力を入れた瞬間、全身を容赦ない激痛が駆け抜けた。左肩の骨が軋み、背中から腰にかけて、引き裂かれるような熱い痛みが走った。
「……あ、っ……」かすれた声が喉から漏れる。
「友香!?」
その声に反応するように、すぐ近くから愛おしげな響きを帯びた声が上がった。視線を向けると、そこには涙をいっぱいに溜めて、身を乗り出している雨宮玲の顔があった。
「……れ、い……?」
玲は友香の問いに頷くと、その細い手を、そっと両手で包み込み、そして強く、強く握り直した。
「よかった……本当に、本当によかった……。もう、大丈夫だよ、友香」
玲の目から大粒の涙がこぼれ落ち、友香の手の甲に冷たく弾ける。友香はそんな玲の顔をじっと見つめながら、必死に自分の記憶の糸を手繰り寄せようとしていた。
——何があったのだろう?なぜ自分はここにいて、こんな大怪我を負っているんだろう?
何か、とても大事なことがあった気がする。誰かが、夕闇の空に向かって、ふわりと浮かび上がったような、そんなおぞましい、けれどひどく悲しい光景が頭の隅をよぎる。
その顔を思い出そうとすると、頭の中に分厚い靄が立ち込め、その輪郭を曖昧にする。そして、鋭い頭痛がそれ以上の思考を遮る。
誰かが、そこにいたはずなのに。名前すら、喉の奥に引っかかって出てこない。自分の心の奥が、何重もの冷たい灰色のベールに覆い隠されてしまったかのような、底知れない不気味さと違和感だけが、痛みと共に残されていた。
それから、十日ほどが経過した。
友香の意識もだいぶはっきりとしていた。
痛みこそあったが、上半身を何とか起こせるようになり、病院食も片手で何とか食べられるようになっていた。
何かが……足りない……。
日を追うごとにその感情は強くなる。
それが何なのか?自分の脳の深層にまで巡らせようとすると、決まって激しい頭痛が起きる。そこで思考が停止してしまう。
「友香!元気?」
玲は学校が終わると、毎日欠かさずこの病室にお見舞いにやってきた。まるでそれが自分の使命であるかのように、友香の身の回りの世話を焼き、お喋りをし、病室を彩り続けた。
いつの間にか玲は、友香の母親ともすっかり打ち解け、病室のパイプ椅子に座って実の娘のように仲良く話し込む姿が日常となっていた。
ある日の午後、夕陽が病室の床を長く赤く染め始めた頃だった。玲が鞄から丁寧にホチキス留めされた数枚の冊子を取り出し、友香の母親に手渡した。
「お母さん!これ。私、一生懸命作ったんです」
「あら、これは……?」
母親が受け取った用紙の表紙には、『公務員試験合格までの年間プラン』と几帳面な文字で書かれていた。中を開くと、参考書の進め方や、月ごとの模擬試験の予定が、びっしりと狂いのない細かさで書き込まれている。
玲はいつもの笑顔を母親に向け、ハキハキとした声で言った。
「友香とは、三年生になったら、一緒に公務員試験を受けようって言ってるんです。二人で一緒に勉強して、一緒に合格して、将来もずっと近くにいようねって」
その言葉に、ベッドの上の友香は小さく目を見開いた。
——公務員試験?玲と?そんな話……したっけ?
記憶の引き出しをどれだけ探っても、そんな約束を交わした場面は出てこない。もちろん公務員は魅力的な将来の形の一つである事に間違いは無い。友香もこれまで一度や二度は考えた事がある。
でも、自分の中にあった未来の夢は、もっと何か別の形だった、ような……。
例えば……東京に行って、誰かと二人で、約束した、ような……。
不確かな道ではあるけれど、自分にとって心から進みたい、挑戦したいと思えたものだった……はずだ。
けれど、その「誰か」の姿も、やはり霧の向こうに消えていて掴めない。
「そう、だったっけ……?」
友香が戸惑いがちに呟くと、玲は少しだけ首を傾げ、困ったような、けれどすべてを見透かしたような優しい笑みを浮かべた。
「もう、友香ったら。頭を強く打ったから、忘れちゃったんだよ。ほら、私の隣で、一緒に頑張るって言ってくれたじゃない」
玲の真っ直ぐな瞳。その奥にある、寸分の疑いも挟ませない確信に満ちた光。それを見つめていると、友香は次第に、自分の曖昧な記憶のほうが間違っているのではないかという錯覚に陥っていった。
玲がこれだけ熱心に、自分のためにプランまで作ってくれているのだ。彼女が言うのなら、きっと本当にそんな約束をしたのだろう。そう、思うしかなかった。
「まあ!本当に!?」
母親が用紙を胸に抱きしめ、これまでにないほど明るい歓声を上げた。その目には、未来への安堵から来る涙が浮かんでいる。
「お母さん、本当に嬉しいわ……!友香がそんな風に、将来のことをちゃんと言ってくれるなんて。安定した公務員になれるなら、これ以上の安心はないもの。ねえ、友香?」
「……うん、そうだね、お母さん」
友香は、無理に作った笑顔で頷いた。
「玲ちゃん、本当にありがとうね。この子が退院してからも、どうかよろしく頼むわね」
「はい!もちろんです。私、友香のこと、絶対に見捨てたりしませんから」
手放しで喜ぶ母親と、満面の笑みでそれに応える玲。温かな光に満ちた病室の中で、友香だけが、自分の預かり知らぬ場所で人生のレールが強硬に敷かれ、がっちりと固定されていくような、静かで息の詰まる閉塞感を覚えていた。
「じゃ、また明日ね!友香」と玲は名残惜しそうに微笑んで、病室を後にした。
その後、母を見送り、友香は一人になった。
胃の奥が、ぎゅっと雑巾を絞るように痛み、喉の奥は、言葉にならない違和感でつかえる。呼吸が苦しくなる。
友香は、ベッドの横のサイドテーブルに目をやった。そこには、玲が作った『公務員試験合格までの年間プラン』の冊子が置かれている。
違う……何かが、決定的に違う……。
必死に、必死に記憶の底に沈んだ何かをすくい上げようとする。だが、その輪郭を掴みかけるたびに、頭の奥で火花が散るような鋭い頭痛が走り、それをまた落としてしまう。
——どうしても手放したくない「約束」が、私の未来にはあったはず。
『友香、あんた、絶対に描き続けた方がいい。』
——そう、言われた。誰に?
『|あんだも津軽だんだが《あなたも津軽出身なの?》?』
——そう、あの人は、私と同郷だった。
『未来のルームメイトになるわけだから、そろそろ友香も私を○○って呼んでもらわないと!』
——そう、だから私も……あの人を呼び捨てで呼んだ。
少しずつ、少しずつだが、思い出してきている。
でも、駄目だ。一番大切なところが靄に覆い隠される。
体中の痛みと頭痛に苛まれ、友香が小さく吐息をもらしたその時、窓から吹き込んだ微風が、果実の匂いを友香の鼻腔にふわりと運んできた。
瑞瑞しくて、どこか懐かしい、甘酸っぱい香り。
友香は、玲が置いた冊子の隣にある青リンゴを見る。母親が置いていったものだ。
——林檎……あの時の林檎は……紅かった……。
——あの時?あの時って……あっ……!
友香の脳内で、紅い林檎を持つ一人の少女が思い出された。彼女は友香に優しく微笑み、その手で林檎を揺らす。
『それでは、突然のクイズです!この林檎は"王林"でしょうか?それとも"トキ"でしょうか?三十秒以内にお答え下さい!』
明星だった。一番大切な記憶を、友香は取り戻すことができた。
木花明星。それが、彼女の名前だった。
「王林も……トキも……どっちも青リンゴだよ……」
友香の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
友香は自分のスマホを探した。サイドテーブルの引き出しに入っていた。
しかし、バッテリーは既に切れていた。
明日、母親に充電ケーブルを持って来てもらおう。
きっと明星も、心配してるはずだから……。




