第五十六話 最後の会話
ドッジボール優勝。それがもたらした輝かしい日常の裏で、友香の心は暗い泥に沈み込む様な気分になることが多くなった。
勝利の興奮が冷めやらぬ、歓喜が弾ける教室で、玲が突然暴いた鈴木と伊藤の裏アカ。
『シーバス・チャイルド』に『プリンセス・ウィステリア』
忘れたくても、忘れられるはずがなかった。自分を「ヤリマン」と呼び「あいつと仲良くしているヤツも同類」と言い放った、あの最も醜悪で残酷な悪意。
まさか、中学時代から、高校一年の頃に気軽に話しかけてくれていたはずのあの二人が、その言葉の主だったなんて。
知らなければ良かった。そう思わずにはいられなかった。真実を知ることは、必ずしも救いには繋がらないのかも知れない。こうしてただ、かつて信じていた「友人」との思い出までもが、決定的に汚され、抉り取られただけなのだから……。
なぜ、玲はあそこまで容赦なく二人をクラスの前で糾弾し、切り捨てたのだろう?
みんなで必死に戦い、なんとか勝ち取った、仲間全員の優勝だったはずなのに。
けれど、そう玲に疑念を抱くたびに、友香の胸には強烈な罪悪感がせり上がってくる。
——玲はただ、傷ついた自分のために怒り、戦ってくれただけだ。
玲がいなければ、友香は今も水谷瑞希の冷たい視線に怯え、誰からも存在を無視されたまま、ただ耐えしのぶだけの日々を送っていたはずだ。
玲は、地獄から自分を引っ張り上げてくれた救世主。感謝しなければいけない。
玲の差し伸べてくれた手を、振り払うなんて事はあってはならない。
疑念を抱く自分の方が、きっとどこか傲慢で、歪んでいるのだ。
そう考える一方で、友香は、ふと非常階段での出来事を思い出した。
意を決して語ったはずの東京に行く夢を「嫌だ……」と言われ、そのまま玲にスルーされた。
その時のショックは、今もまだ尾を引いている。——いや、それでも……。
「不満に思っては……いけない……」
つい口に出してしまう。その義務感と、玲に対する得体の知れない「微かな恐怖」。その板挟みのなかで、友香はいつしか、玲に対して作り笑顔を浮かべることが多くなっていった。
玲の優しさの裏にある底知れない何かに、無意識に防衛本能とも呼べるものが働いていた。
瑞希から解放されたはずなのに……また、心の壁を築き上げる。そんな皮肉なほどに穏やかで、どこか息苦しい日々が続いていた、
ある日の放課後のことだった。
いつものように玲は、友香と一緒に帰ろうと声を掛けてきた。そして、昇降口で靴を履き替えていた時、二人の背後から声をかける者があった。振り返ると、担任の大谷がそこに立っていた。大谷の手には、ぎっしりと束ねられたワークブックが抱えられている。
「あ、雨宮。これ!これ!」と大谷が声をかける。玲はそれを見て、自分の頭を「あ!」と軽く叩いた。
「そうだった。友香、先に行ってて」
玲は申し訳なさそうに、いつもの屈託のない笑顔を浮かべた。
「先生に頼まれてたクラス全員分のワークブック、職員室に運ぶの忘れてた。五分もかからないで終わるから、すぐ追いつくよ」
「……うん、わかった。駅の方までゆっくり歩いてるね」
友香は小さく微笑んで頷き、一人で校門の方へと歩き出した。
どこか少し……ホッとしていた。
しばらく歩いていると、友香のスマホがブルルと震えた。
最近では電話が鳴ること自体が珍しかったので、驚いて画面を見る。
そして一瞬、目を大きく見開いた。ディスプレイに表示されていたのは『瑞希ちゃん』だった。
ごくり、と唾を飲み込み、おそるおそる通話ボタンを押して耳にあてる。
「……もしもし」
「ふふ、番号、変わってなかったんだ」
耳元に響いたのは、一週間以上も学校を休んでいた「女王」水谷瑞希の声だった。
その声からは、かつての刺々《とげとげ》しさが消え、中学以前の仲が良かった頃を思い出させた。しかし、不気味なほど落ち着きすぎていて、どこか遠い場所から響いているようにも聞こえる。
「うん……瑞希、ちゃん。どうしたの?今、どこに……」
「ちょっとね。最後に、友香と話したくなったの」
「最後って……どういうこと……?」
心臓が嫌な音を打ち始める。
「ねえ、友香。私ね、今、ここから友香が見えるよ」
「え……?」ぞくりと背筋に冷たいものが走る。友香は足を止め、周囲を見回した。
「ふふ、そこじゃないって。相変わらず鈍くさいなあ……もう少し、コンビニの方まで進んで、そう」
友香は瑞希の言うまま、コンビニの近くまで進んだ。そして辺りを見廻すが、瑞希は見当たらない。
「もうちょい左を向いて。そう!そこから上を見て。違うよ、もっと、ずーっと上だってば」
スマホの向こうの瑞希は、楽しそうにささやいた。友香は吸い寄せられるように、ゆっくりと視線を上空へと向けた。
道路沿いに建つ古い雑居ビル。その屋上の縁に、今にも風に吹き飛ばされそうな、一人の不自然な影が立っているのが見えた。間違いなかった、瑞希だ。笑顔が見えたが、かなりやつれている。
「瑞希ちゃん!待って、何してるの!?」
友香は普段出さないような大声で、スマホに向かって叫んだ。
「……私には何も無くなった。全部、無くなっちゃったんだ……」
瑞希の声は、どこか虚ろだった。
「今、そっちに行くから!動かないで、お願い!」
「今からこっちに来ても無駄だよ。友香が着く頃には私はもう飛んでる。それよりさ、最後にお話しようよ……」
「お話……?話なら後でいくらでも聞くから、そこから離れて!お願い!」
友香は自分自身、ヒステリックになっていくのがわかった。
「今じゃないと駄目なの!」
瑞希も大声で返す。走り出そうとした友香も急停止する。
友香はこれ以上瑞希を刺激しないよう、なだめるような声色を作った。
「……わかった。お話しよう。瑞希、ちゃん……。話って何?」
少し話をして落ち着かせるのが最善なのかも知れない。自分も、瑞希も。
スマホの向こうで、瑞希は「ふっ」と短く、幼い頃のような笑い声を漏らした。
「ねえ、覚えてる?私たちが昔、よく一緒に行っていたあの秘密の隠れ家」
「え……?あ、うん……覚えてるよ……」
こんな極限状態で、なぜそんな昔の話をするのか。友香の頭は混乱した。
「あの、神社の裏の壊れた物置の軒下。あそこにね、私の宝物を埋めたの。もし見つけたら、あんたにあげるよ、友香」
「宝物……?うん、瑞希ちゃん。わかった。わかったから、とりあえずそこから離れよう」
「話はそれだけ、良かった……これで心置きなく飛べるよ」
「待って!何で!何で飛ばなきゃいけないの!わかるでしょ!死んじゃうんだよ!やめて!お願い!」
もうなりふり構ってはいられなかった。叫ぶ友香の声は、すでに涙で掠れていた。
受話器の向こうの風の音が、瑞希の静かな言葉を運んでくる。
「だって、約束だもの。仕方ないじゃない……」
「約束……って……」
その言葉の持つ、おぞましい冷たさに友香の背筋が凍りつく。
「約束?何……それ……そんなの、守る必要なんてないよ……!やめて!お願いだから、そこから離れて!私にできることがあれば何でもするから!瑞希ちゃんの言う通りにするから!だから、やめて!」
喉がちぎれんばかりに叫んだ。瑞希の返答は、どこか未練と諦めの間を彷徨っている様に思えた。
「友香にできるかなあ?あんた鈍くさいしさ……やっぱ無理かもね……。どっちにしろ、あの子はもう戻って来ない。私がミスったから」
「あの子?あの子って……誰?」
その時、「友香!」と言う声が後ろから聞こえた。玲だった。自分の仕事を片付けて、友香を追いかけて来たのだろう。何か友香に言いかけたのがわかったが、それに構っている余裕は無く、今は瑞希との会話に集中するしかなかった。
友香の脳裏に、ドッジボール大会のあのアンダースローの瞬間が蘇る。あの決勝戦。自分が放った、最後のシュート。あれのせいで、瑞希は何か取り返しのつかない形で「ミス」してしまったというのだろうか?
「あ〜あ、最後にもう一度、あの子に会いたかったなあ……」
瑞希のその呟きは、誰に向けられたものなのか、友香には分からなかった。ただ、それが最後の言葉になることだけは、直感的に理解できた。
「瑞希ちゃん!!」
屋上の縁に立つ瑞希の体が、ゆっくりと傾いていく。重力に引かれ、その小さな影が夕闇の宙へと投げ出された。
「嫌ああああああああ!」
友香は手に持っていたスマホをアスファルトに投げ捨て、遮二無二走り出した。
友香は自らの体を投げ出すようにして、落下してくる瑞希の真下へと滑り込み、両腕を思い切り広げた。ドッジボールのコートで、玲が弾いたあのボールを取った時のように、瑞希も受け止められると信じて……。
そして、強烈な衝撃と、肉体が破壊されるおぞましい音が、夕暮れの街に響き渡った。




