第五十四話 夢
ドッジボール大会での優勝を境に、友香の学校生活は劇的な変貌を遂げた。
朝、教室のドアを開ければ、かつて自分を「透明人間」のように扱っていた田中麻里奈や佐藤めぐみが、当たり前のように挨拶を投げてくる。
その後、雨宮玲が抱きつくと言う、何らかのハラスメントを含んでいそうな過剰な友香への挨拶は、今後、欠かせない日課となっていく。
そして、これまで友香に見向きもして来なかったクラスメイトやハンドボール部の女子までもが、ごく自然な笑顔でノートの貸し借りを頼みに来るようになった。
その変化の裏には、明確な理由があった。決勝戦で、友香が低い姿勢から放ったアンダースロー。瑞希を撃破したあの決定的なシーンが、SNSのショート動画として凄まじい勢いで拡散されていたのだ。
これにより、玲の身体能力だけでなく、友香自身も「奇跡を起こした少女」として注目の的となった。
玲は事あるごとに、常に友香と共に行動していたし、部活動の熱烈なスカウトさえも「友香と一緒にいたいから」という理由で全て断っていた。それを受け、中には友香ごと部活に入部させようとする者たちもいた。
結果、玲の隣にいる友香の存在感も際立つ様になっていた。
優勝から二日後。
友香には、肯定的な視線にさらされ続けることへの微かな疲れが生じていた。
その日の放課後、ふと一人になりたくなった友香は、校舎の外壁にへばりつくように設置された非常階段へと足を向ける。扉を開けると、冷たい空気が友香の頬に乱暴に触れた。
人の感情とは不思議なもので、この拒絶されるような冷たさこそが、今の友香にはどこか心地よかった。
階段の途中で腰を下ろすと、風が少し弱まった。ここは、かつて居場所を失っていた自分を支えてくれた唯一の聖域。
目の前にある錆び付いた手すりの間から向こうを見る。街並みを茜色に染める、色鮮やかな夕焼けが見えた。
友香は静寂の中で小さなスケッチブックを広げ、色鉛筆を取り出し、無心に絵を描き始める。
しばらく経った頃だった。
「ここにいたんだ!」
ガチャンと扉が開く音がして、玲が嬉しそうに入ってきた。
「あ、玲」
友香はスケッチブックから視線を外して、笑顔を返した。友達が来てくれた嬉しさと、自分の作品を見られる気恥ずかしさ、そして一人の時間が終わったこと。そんな複雑な感情が入り交じっていた。
「絵……描いてたんだ?」
玲が友香に聞く。
「うん……」
「そっか……」
玲がにこやかに笑っている。
大会を共に戦い、ずっと味方でいてくれた玲になら……自分の夢を言えそうな気がした。
友香は照れ混じりに、スケッチブックに再び目を向ける。
「私ね……最近できた夢があってね……」
「夢?」
玲が不思議そうに尋ねる。
「実は……東京に行くのが夢なの」
「東京?」
「うん、絵の勉強をね、そっちでしていきたいなって。あ、でも誰にも言わないでね。まだ先の話だからどうなるかわからないし、ちょっと恥ずかしいから……」
夕焼けがいよいよ非常階段を、赤く照らし始める。
数秒の沈黙。
やがて玲は、小さく呟いた。
「嫌だ……」
「……え?」
予想外の言葉が聞こえた気がした。
友香が振り返ると、玲はいつもの笑顔でそこにいた。
「帰ろ?あかりも待ってるし」
意を決して話した友香の夢を、玲はスルーの形で話を変えた。
動揺が走った。しばらく玲の顔を見続けていた。
玲の笑顔は変わらない。
——きっと聞き間違い……だよね?
もしかしたら玲は「そっか」とか「いいな」とか言ったのかも知れない。
そう、思いたかった。
そして、しばらく忘れていた。
また「あかり」だ……。
玲のイマジナリーフレンド。
これについても、友香は何もわかってない。
今、起きてる事の全てに消化不良の気持ちを抱えたままだったが、友香は何とか笑顔で返した。
「そっか!そかそか……。じゃあ、帰ろっか……」
そして、急いで身支度を済ませた。
帰り道、川も野原も生徒たちも、何もかもを夕焼けが染めている。
玲は今日あった出来事を屈託の無い笑顔で伝えてくる。友香もにこやかに笑い返す。
悪気は……なかったのだと思う。玲の、あの率直過ぎる性格もわかってはいる。でも友香は、玲があの時何と言ったのか?それがずっと頭から離れなかった。
——でも、たぶん……。
友香は、本当は聞き取っていた。そんな確信があった。
そして一つ、ため息をついた。
あの時の瑞希の言葉の意味も、そして今、玲の言った言葉の真意も、結局聞くことはできなかった……。




