第五十二話 河原にて
夜の帳が下りた河原に、玲と友香は降り立っていた。
頭上を横切る橋が巨大な影となって横たわっている。この時間帯にしては、周囲は意外なほどに明るい。
雲の切れ間から覗く月光が静かな水面に反射し、その揺らめく光がコンクリート壁をぼんやりと照らし出しているせいだった。
玲はカバンから赤いラッカースプレーを取り出すと、その壁に向き合った。シュ、シュッという鋭い音と共に、壁面に大小二つの歪な円が描き出される。
「あ、玲!駄目だよ、そんなところに落書きしちゃ……」
後ろで見守っていた友香が慌てて声を上げたが、玲はキャップを閉めながら事もなげに振り返った。
「大丈夫大丈夫!これくらい!それより、ドッジボールに向けて練習、練習!」
「でも、どうしてわざわざこんな夜の河原で……?」
「学校だとちょっとね……。誰がどこで見ているかわかんないからさ……」
玲はそう短く答えると、ボールを人差し指に乗せ、クルクルと回す。水面の反射がまるでスポットライトのように玲と友香の二人だけを照らし、この橋の下の空間だけが、外界から切り離された様に見える。
「じゃあ、まず試しにこう投げてみて」
玲が見本を見せる。ボールは的の中心にぶつかり、バシン!っと言う小気味よい反発音を立てて玲の方に戻って来る。
「玲……すごい……」
友香が驚きと共に見とれる。
「今度は友香の番だよ、やってみて」
玲に促され、友香は精一杯腕を振った。しかし、不慣れな投球フォームから放たれたボールは、壁の的に届く前に力なく地面を転がった。それでも玲は慌てること無く、次のフォームを友香に指示する。
「じゃあ、この投げ方はどうかな?」
上手投げ、横投げ……玲はいくつものフォームを試させたが、友香の投球はなかなか的に当たることさえない。
「……玲、ごめんね。ドッジボールもこんな感じだと、私、何の役にも立たないね」
友香は肩を落とし、消え入るような声で謝った。元々、友香は運動全般の飲み込みが遅く、自分の不甲斐なさに意気消沈しているのだ。玲はそんな彼女を真っ直ぐに見つめ、力強く答える。
「何言ってんの、友香?友香はもうすでに充分に役に立ってるよ」
「え……?」
友香が驚いて顔を上げる。
「友香がいるだけで、私の力が十倍になってる!」
「何、それ……?」
困惑する友香に、玲は
「だって、事実なんだから仕方ないじゃん!」
と、あっけらかんと言い放ち、二人は顔を見合わせて笑い合った。
何球か投球を終え、友香の疲れも見え始めた頃、その日はそれで切り上げた。
翌日、学校が終わってから、友香はバケツを持って同じ河原に来ていた。昨日、玲がスプレーで丸を描いていた落書きを消すつもりだった。
しかし、川で水を汲み、その場所に来てみると赤い丸が根こそぎ消えていた。
友香が驚いていると
「友香、どうしたの?」
と呼びかける声がした。振り返ると玲がそこに立っていた。
「あ、玲!昨日の赤い丸の落書きを消そうと思ったら。全部消えてて……」
そう言うと、玲はラッカースプレーを取り出し、得意そうに言った。
「へへ、これ、水かけるとすぐ消えるやつだよ。ただ消えるだけじゃないよ。自然成分由来だから溶けた水もちゃんと自然に帰るから安心して!」
「あ、そうだったんだ……落書きをそのままにしたのがちょっと気になってて……」
「ごめん、昨日言えば良かったね」
「ううん、油性だったら消すのに時間かかるかな?って思ってたから安心した」
「ちょうどいいや!友香、今日も練習しよう!」
「え?」
そう言うと、玲はまたスプレーで昨日と同じく赤い丸を描いた。
玲は、友香に自分の知っているあらゆる投げ方を試させた。
友香も真剣ではあったが、昨日と変わらず、的にボールを当てるだけでも一苦労だった。
それでも、玲は顎に手を当てて友香を観察し続ける。
「だんだん友香のフォームのクセとか傾向がわかってきた。あともうちょっと頑張って!何か友香にぴったりの得意なフォームが、もう少しで見つけられる気がするんだよね。なんか私の勘がそう言ってるの!」
「うん、わかった……」
それから友香が何球か投げ、しばらくの後、玲が、ある閃きを得たように言った。
「……じゃあ、これは?下から、地を這わせるように投げてみて」
玲が見本を見せた後、言われるがまま、友香は深く腰を落とし、床スレスレの位置から腕を振り抜いた。
アンダースロー。放たれたボールは、これまでとは打って変わって鋭い弾道を描き、壁に描かれた小さな丸の真ん中にピタリと吸い込まれた。
バシィッという乾いた音が橋の下に反響し、跳ね返った後も、ボールは砂利の上で激しく回転を続けている。
「あ……投げやすい……かも?」
友香が驚きの顔でボールを見つめる。玲の顔もパッと明るくなる。
「凄い!すごいよ、友香!これだ!」
玲は友香に駆け寄り、抱きしめんばかりに喜んだ。
「これだけでいい、これをずっと練習しよう!」
ひとしきり練習を終えた後、玲は近くの自販機で買った冷たい缶ジュースを友香に手渡した。
「あ、ありがとう」と受け取った友香の指先は、少し震えている。
二人は河原に腰を下ろし、水面に映る月を眺めながら、その上に広がる夜空の星を仰いだ。
「……これで、私も何とか戦力になれるかな?」
友香が不安げに尋ねると、玲はジュースを一口飲み、真剣な眼差しで友香を見つめた。
「友香。このアンダースローは、私がOKを出すまで誰にも見せちゃダメだよ!」
「え……?」
「作戦があるんだ……。友香は絶対に私の最後の切り札になるから!使うのは私が友香にボールを手渡した時、それが合図だから覚えておいてね!」
「う、うん……わかった……」
「やったあ!友香のアンダースローのおかげで私、百倍強くなれるよ!」
「それは、大げさだよ……」
二人の笑い声が、月明かりの下の水面に溶け込んでいった。




