第四十九話 転入生
九月に入った。
担任の大谷に連れられて、一人の少女が教室に入ってきた。
「転入生の、雨宮玲さんです」
そう紹介されると、玲は静かに一礼した。
——綺麗な子だな……。
友香は玲の顔を見てそう思った。黒板の前に立つ彼女の姿には、目を逸らせないほど強烈に引き寄せる何かがあった。
おそらくは他のクラスメイト達もそうだったろう。あのクラスの女王、瑞希ですら、彼女の顔から目を離せないでいる。
でも、どこか近寄りがたい、それでいて寂しそうな感じもして、ちょっとミステリアスな雰囲気もあって……。
友香は玲への詮索をそこまでにした。おそらく今後、彼女は瑞希達のグループと仲良くしていくだろうし、そうなったらこれまで通り無視されていくのは間違い無い。どちらにしろ自分とは何の接点もないだろう。
友香は思考を切り替える。そして、鞄に隠している小さなスケッチブックの事を考えた。今日は何を描こうかな?と……。
ある日の放課後、いつもの帰り道。急にトントンと肩を叩かれた。
「ねえ、駅ってどっちの方向?」
凛とした、迷いのない声。驚いて振り返ると、そこには雨宮玲が立っていた。
一瞬、体が硬直して動けなくなった。
——私に話しかけるなんて……。誰かに見られたら彼女まで巻き込んでしまう。
真っ先に思ったことはそれだった。そして、ふと周囲を見渡す。特に見知った生徒はいない様だった。それでも不安に思いつつも、玲の真っ直ぐな瞳にちょっとした好奇心を感じ、友香はつい警戒を解いてしまった。
「雨宮さん、だよね?あ、駅?案内するね」
友香は、自分でも驚くほど饒舌になっていた。この辺りで唯一の本屋さんのこと、美味しいケーキ屋さんのこと。久しぶりに同学年の誰かと「普通」の会話ができることが嬉しくて、彼女に色々なことを教えた。玲は友香の言葉を一つひとつ丁寧に拾い上げ、頷き、笑ってくれた。
「あ、ごめんね。私ばっかりしゃべって」
「ううん、いろいろ教えてくれて助かる」
駅に着いた。すると、玲は少し照れくさそうに話しかけてきた。
「あの、私、雨宮玲って言うんだ」
「ふふ、知ってる。同じクラスだし。さっきも私、雨宮さんって呼んでたよ」
そして、自分の名前が汐見友香であることを伝える。
「汐見、友香ね……これから友香って呼んでもいいかな?私の事も玲って呼んでいいから」
「え、あ……うんうん、もちろん」
自分の名前なのに、母親以外からの「友香」という響きを、久々に聞いた気がした。もちろん、明星からも名前を呼ばれる事はある。
しかし、そんなに頻繁に会えるわけではないし、一つ年上の明星は、今ちょうど進路に向けて忙しい時期で、しばらく顔を合わせていない。
だから、同学年の誰かに呼んでもらえることがとても新鮮で、妙に心が温かくなるのを感じた。そう思った瞬間、自分はまだこの世界に存在していいのだと、実感できた気がした。
けれど、彼女が放った最後の一言が、友香を現実に引き戻した。
「じゃあ、また明日、学校で話そう」
その言葉を聞いた瞬間、友香の心は急速に冷え込み、顔が曇るのが自分でもわかった。雨宮玲はもちろん、何も知らない。自分がこのクラスでどんな扱いを受けているのかを、そして自分と仲良くすることが何を意味するのかを……。
一瞬、渋谷七瀬の顔が思い浮かんだ。この子を彼女の二の舞にさせてはいけない。楽しかった魔法は今、無情にも解けたのだ。
「それはやめた方がいい。私と仲良くすると、その……目を付けられる事になると思う。たぶん面倒な事になるから。だから……学校では無視していいから」
彼女の差し伸べた手を、自ら振り払うような言葉を口にした。
「じゃあね……」
自分が思った以上に、冷たく言い放ってしまった事に心が痛んだ。
でも、これでいいんだ。あの子まで標的になる事は無い。
そして友香は、あてもなく駅のショッピングモールに入っていく。
その中は、学校の冷え切った空気とは正反対の、まばゆい光と賑やかな喧騒に包まれていた。色とりどりの服が並ぶショップ、甘い香りを漂わせるカフェ、そして楽しそうに笑い合う、他校の女の子たち。
そんな光景を眺めながら、友香は先程とは違い、自分の存在がどんどん薄くなっていくような錯覚に陥る。
——もし……もしも私がこんな状況になっていなかったら……。
ふと、そんな叶わない仮定が頭をよぎった。
瑞希に恨まれることも無く、SNSでひどい噂を流されることもなく、ただの「汐見友香」としてここにいられたなら……。
きっと、今頃は玲を誘って、あのお店で可愛い雑貨を選んだり、新作のスイーツを分け合ったりして、他愛ないお喋りに花を咲かせていたのかもしれない。
——良い子、だったな……
玲とはたった十数分、一緒にいただけだけど、彼女の言葉一つひとつが、凍りついた友香の心を優しく溶かしていく様だった。
でも、だからこそ、その光を瑞希に消させるわけにはいかないのだ。
かつて「何があっても一緒だよ」と言ってくれた七瀬でさえ、瑞希が作り出す圧倒的な力の前では、泣きながら友香を拒絶するしかなかった。友人を標的にされ、どんどんすり減っていく過程を隣で見守り続けることほど、残酷なことはない。
——ごめんね……。違う誰かと友達になってね。
心の中で何度も謝罪を繰り返しながら、友香は気晴らしに文房具を一つ買った。
そして、明日また「教室」という静かな地獄に備えるため、心の壁を厚く塗り固めていった……。
「おはよう!友香!」
翌日、友香の心臓は朝からひっくり返りそうになった。
佐藤めぐみが呼び止めるのをすり抜けて、玲が友香の席へと真っ直ぐに近づいて来たのだ。
昨日の忠告なんてこれっぽっちも覚えていないような、屈託のない笑顔がそこにはあった。
クラスメイトたちの視線が一斉にこちらに突き刺さるのを感じ、友香は焦りの表情を見せる。
(なんで……?昨日、あんなに言ったのに。私に関わったら、あなたまで……)
友香は玲に「察して欲しい」視線を送る。しかし、玲はそんな友香の心配がまるで伝わっていないかのように、ケロッとした表情でいる。
そして、迷いのない口調でこう続けた。
「あのさ、ちょっと思ったんだけどさ。
面倒かどうか、それって私が決める事じゃない?」
友香は目を丸くした。この教室には、瑞希が作り上げた「空気」という絶対的なルールがある。関わってはいけない人間に自分から近づくなんて、この場所では正気の沙汰ではない。
瑞希はまだ教室に来ていないが、今、この瞬間も佐藤めぐみや他のクラスメイト達が一部始終、彼女に報告するだろう。
「そう……かもしれないけど。でも!」
友香がなおも食い下がろうとすると、玲はそそくさと友香の隣の空いている席に腰を下ろした。まるでずっと前からそこに座っていたかのような自然さで。そして、机の上に置いてあった、昨日ショッピングモールで買ったばかりの小さなシャープペンシルを指差して、はしゃいだ声を上げた。
「あ! それ、すごくかわいい! 昨日買ったの?」
それがあまりに普通で、あまりに飄々《ひょうひょう》としていて、さっきまで友香の全身を締め付けていたあの息苦しい緊張感が、嘘みたいに霧散していくのを感じた。
瑞希が支配するこの冷たい教室の中で、彼女だけがまるで別な世界から吹いてきた自由な風みたいに思えた。
友香は色々考えていた自分が馬鹿らしくなり、思わずプッと吹き出してしまった。
「うん……昨日買ったの」
根負けした部分もあるが、今は心配も不安もどこかへ忘れて、ただ会話を楽しみたかった。




