第四十七話 美術室にて
六月も終わりかけの頃。
梅雨の湿った風が入り込む放課後の美術室。そこに友香はいた。三年生の木花明星が彼女を呼んだのだ。
「おお!来てくれたね!」
明星は、いつもの明るい声で友香を迎えた。友香は少し戸惑いながら、静まり返った室内を見渡す。普段なら美術部員たちが筆を走らせている時間だが、今日は自分たち以外に人影がない。
「あの、今日は皆さん、いらっしゃらないんですか……?」
「ああ、いつも水曜日は休みになってるの。顧問の先生も忙しくて毎日は見られないって事でさ。まあ、でも戸締まりとか鍵の管理を担当してるから、私だけいつでも鍵を借りられるんだ」
明星はそう笑いながら答えた。
「それで、今日は何を……?」
戸惑い気味に友香が尋ねる。
「ちょっと、友香に絵を描いてもらいたいと思って!」
「絵を?」
思わず聞き返した友香に、明星は悪戯っぽく瞬きをする。
「そう!あ、でもそんなに構えないで。あまり難しくないやつだから」
「……は、はあ、それで何を描くんですか?」
友香が問いかけると、明星は得意げに鼻を鳴らした。
「まあ、彫刻とか風景でもいいんだけど……でも私達、青森出身と言えばこれでしょ!」
と言って彼女が背中から取り出したのは、紅く輝く一つの林檎だった。
「林檎?」
「そう!今日はこれを描いてもらいたいんだ。あまり時間もないから下書きなしで、直接塗ってもらおうかな?」
明星はそう言い残すと、そこにあったパレットと筆、絵の具一式を友香に渡す。
「え……?これって美術部の備品じゃないんですか?あと、このキャンバスも……」
「ああ、気にしないで!キャンバスは私のお・ご・り!私が友香を呼んだんだから、好きな様に描いて!」
そしてひらりと身を翻し、机の上に腰をかけた。友香は明星の意図が読めず、やや緊張の面持ちを見せていたが、やがてパレットを見て少し微笑み、筆を取った。鉛筆での下書きという「保険」をかけない直接の着彩。
パレットの上で絵の具が混ざり合い、鮮やかな赤が生まれる。そして、友香の筆先がキャンバスの上にそっと着地する。
普段、教室で押し殺している分、感情の赴くままに筆を滑らせる。筆はまるで美しく踊るフィギュアスケーターの様に軽やかに、滑らかに、白いキャンバスを色彩で満たしていく。
友香は林檎の皮の質感や、その奥にある瑞瑞しい生命力を写し取っていく。その筆致は、表現への純粋な渇望が宿っている様にも思えた。
明星は、その様子を黙って、ただにこやかに見守っていた。
三十分ほどが経過し、友香はパレットを机に置いた。明星がキャンバスを覗き込み、「やっぱり、すごい……」と感嘆の声を漏らす。友香自身も、自分で驚くほど満足のいく出来映えに感じた。
これまで、目立たないよう小さなノートサイズのスケッチブックに色鉛筆でばかり描いていた彼女にとって、この大きなキャンバスに思い切り筆を走らせるのは久しぶりのことだった。どこか爽快感と解放感があった。
「あのね。私、思い出した事があるんだ」
「え?何ですか?」
友香が尋ねると、明星は鞄から一冊の冊子を取り出した。
「あ、それ……」
友香が驚く。その冊子は友香が持っているものと同じだった。明星はあらかじめ付箋を貼っていた半ページを開き、友香に見せる。
そこには、友香が中学時代に銀賞を受賞した絵画『風の咲く街』が掲載されていた。
「なんで、それを明星さんが?」
友香がそう言いかけた時、明星はもう半分のページを開いて見せた。
よく見ると、「金賞:『六月の光彩』木花明星」と書かれていた。
その瞬間、友香も思い出した、光の粒子が何層にも重なり合ったような、深い透明感。それをあの様に表現できる人がいるなんて、と当時、驚愕に近いほど驚いた事を……。
「あの時の金賞、明星さんだったんですね!
そうだ……名前に見覚えがあったのに。『明星』を『めいせい』って読んでて、勝手に男性だと思ってました……すみません……」
「ハハ……いや、私も図書室で友香に会うまで忘れてたんだけどね。でもやっぱ聞き覚えあるなと思って、過去のコンクール冊子を漁ってたら、友香の名前が出て来てさ。ああ!そうだそうだ!って一人で興奮してたよ!」
そして明星はあらためて友香の絵のページを見る。
「実はね、あのコンクールの時、隣に並んでた友香の絵を見て、私、自分の金賞が少し恥ずかしくなったんだ。あんなに震えるような赤、私には描けなかったから。だから、私は金賞の自分の絵よりも好きだったなあ」
友香は明星を見つめ、首を振る。
「……そんなことないです。私、あの賞を取った後、ちょっと辛い事が重なってて、絵を描くことも何もかも止めたくなってた時でした。
あの展覧室で『六月の光彩』を見た事を思い出したんです。明星さんの絵にある光は、どこまでも透き通っていて、温かくて、そこにいるだけで私も息をしていいんだって、背中を押されたような気持ちになれたんです。私に足りないのはきっと、それなんだなって……。
いつかあんな、誰かの心に残る絵を描きたいって思いました。
あの時、私を救ってくれたのは、間違いなく明星さんの絵なんです!」
友香の真剣な面持ちに、明星が照れ笑いを浮かべる。
「な、なんか面と向かって言われると、ちょっと恥ずかしいなあ。でも、嬉しいよ。じゃあ、お互い、無い物ねだりって事なのかな?」
「そう……かも知れないです」
そう言って、二人は笑い合った。
「あ、でもこの『風の咲く街』と今の友香の林檎の絵と比べてみて、あらためて友香のことがわかった気がする。
今の友香の絵には、少し『嘘』も混じってる感じがある」
「嘘……ですか?」
「ああ、でも全然悪い意味じゃないよ。矛盾するようだけど、絵のリアリティを上げるには、時に嘘のエッセンスが必要な場合もあるからさ。
例えば、この林檎の影の部分。現実ならもっと沈んだ暗い色になるはずなのに、友香はここにありえないくらいの鮮やかな反射光を入れてる。
現実をそのまま写すのはただの記録。でも、友香の絵は違う。欠けてる光を補うために、確信犯的に美しくて、優しい嘘を塗り重ねてる。でもこれ、計算じゃないよね?もっと……何か……本質的な部分。
たかが林檎かもしれないけどさ、やっぱりここから感じるものは確実にあるから。友香、私が言わなくても、ずっと絵は描き続けてきたんだよね。わかるよ。友香は努力型の天才だね!」
「それは、褒めすぎです……」
友香は照れくさそうに視線を落とした。明星が自分の中にあるものを真っ直ぐに見つめてくれることが、何よりの救いだった。




