第四十四話 悪夢再び
次の月曜日。教室のドアを開けた瞬間、友香は異様な空気を感じ取った。
いつもなら、美術部で共に絵を描いていた瑞希が
『おはよう、友香、何で朝からそんな元気無いの?腹立つんだけど!』と、
少し棘のある、それでも聞き慣れた声で迎えてくれるはずだった。
だが、そこに瑞希の声はなかった。
クラスの中心にいる瑞希の周りには、いつも通り数人の女子が集まり、スマートフォンの画面を覗き込んでは笑い声を上げている。友香は、瑞希の隣にある自分の席へと歩み寄った。
「瑞希ちゃん、おはよう……」
絞り出すような声だった。だが、瑞希はピクリとも反応しなかった。まるで、最初からそこに誰もいないかのように、隣の女子と会話を続けている。
「ねえ、昨日送ったあの動画見た?」
「見た見た、超ウケるんだけど!ピンチョ川崎だっけ?あの動画配信者、これから絶対に人気出るって!」
瑞希たちの会話は、友香の存在を器用に避けて流れていく。友香は話す事を諦め、自分の席に座った。
休み時間になっても、その壁は厚くなる一方だった。
「ねえ、友香……」
勇気を出したのか、二人ほど、友香に話しかけようとした子がいた。鈴木絵里子と伊藤姫乃だった。しかし瑞希の冷ややかな視線に気づいた瞬間、怯えたように顔を逸らし、結局瑞希のグループに戻っていった。
友香は次の週末、美術部を辞めた。
顧問の先生が「もったいないよ」と引き留めたが、友香は作り笑いで「そろそろ勉強に専念したいなと思って……」と言うと、あっさりと退部を認めた。
もしも自分が辞めたら、瑞希ちゃんはいつも通り話しかけてくれるだろうか?
別に瑞希のためだけに辞めたわけでは無かった。しかし、それも理由の一つではあった。結果だけ言えば、それは完全に無駄に終わった。
それ以降、友香は中学三年になっても誰ともほとんど会話の無いまま、中学時代を終える。
そして志望校も変えた。
本来、瑞希と同じ高校になるはずでは無かった。中学二年の後半に始めたにもかかわらず、瑞希はハンドボールでメキメキと頭角を現していたし、三年になってからもいくつかの大会で優勝こそなかったものの良い成績を収めてもいた。
だから誰もがスポーツの実力校に推薦で入ると思っていた。
しかし、どういう経緯があったかは定かでは無いが、結局、友香と同じ高校に落ち着くことになった。
それでも、事態は少しずつ好転していた。瑞希とクラスが違ったのである。友香は一組で、瑞希は七組だった。五組から七組までは渡り廊下を挟んでいるので、瑞希とはほとんど会う機会がなかった。
それからは割と、安心して過ごせる日々が続いた。中学で一緒だった、鈴木絵里子と伊藤姫乃も元のように気軽に話しかけてくれる様になった。
友香は美術部こそ入らなかったものの、小さなスケッチブックと色鉛筆を持ち歩く様になった。それは鞄に入るほどのノートサイズの大きさで、放課後の教室、誰もいない瞬間を狙ってサササと描いたり、非常階段や図書室。時にはトイレの個室等、ふと描きたくなった時に描いた。
二年生になり、再び地獄が戻って来る。
始業式。掲示板に張り出されたクラス名簿を前に、友香は息を止めた。
二組。汐見友香。そして、その数行下に並ぶ「水谷瑞希」の名前。
一組と七組という、渡り廊下で隔てられた「安全圏」は、あの日、音を立てて崩れ去った。ただ、友香としては、一縷の望みはあった。
中学時代の事は中学時代の事として、ひょっとしたら忘れて、また仲良く話せるのではないか?と。もしくは関わらないなら関わらないでいいから放っておいてくれるのではないか?と……
しかし、瑞希と同じ空間に閉じ込められた瞬間から、友香の日常は急速に侵食され始めた。
地獄は、目に見える暴力ではなく、再びクラス全員からの「沈黙」という形をとってやってきた。あの時と同じ様に、瑞希はクラスの中心に君臨していた。
ハンドボール部での活躍とSNSでの圧倒的なフォロワー数を武器に、彼女は瞬く間に教室の「女王」となっていった。
さらにやっかいなのは中学時代とは違い、
<汐見って、先生に告げ口ばかりしてるらしいよ>
<本当は、ヤリマンなんだって>
と、根も葉もない噂がSNSで出回り始めた事だ。
こうなってくると、一年の頃に友香と親しくしていた鈴木絵里子や伊藤姫乃も、瑞希の取り巻きたちの視線を恐れ、一人、また一人と友香から離れていった。
「……ごめんね、友香。噂は信じてないけど……瑞希に睨まれると、私たちもその……困るから」
そんな謝罪さえ、やがては無言の拒絶に変わった。
たった一人、一年から友人だった渋谷七瀬と言う子だけは、
「私は何があっても友香を信じるし、一緒だよ!」と言ってくれた。
そうして、しばらく七瀬は友香と共に行動をしてくれたし、一緒にいてくれた。しかしその決意も、瑞希が作り上げる圧倒的な「空気」の前では長くは持たなかった。
悪意あるSNSの書き込みの矛先は、いつしか七瀬にも向けられ、友香は彼女が顔を青ざめさせて震えているのに気づいた。その後、学校を休みがちになり、何日か後に放課後の教室で謝られた。
「ごめん……友香。私、もう耐えられない。みんなに無視されるのが、こんなに怖いなんて思わなかった。……私、普通に戻りたいの」
それは、鈴木や伊藤の「瑞希に睨まれると困るから」という謝罪と同じ響きを持っていた。けれど、友香は七瀬を責める気にはなれなかった。
「ううん、いいんだよ。今まで一緒にいてくれてありがとう」
友香が作り笑いでそう答えると、七瀬は逃げるように教室を飛び出して行った。
友香はその背中を目で追ったが、その先で彼女を受け入れていたのは、瑞希とその仲間達だった事に気付いた。瑞希がどこか勝ち誇った様な顔で、友香の方を向いた途端、友香は不意に目をそらした。
そして友香は再び、誰からも話しかけられず、隣に誰も座らない「透明人間」へと突き落とされた。
それから友香は、来る日も来る日も、机の上で小さく指を組んで耐えた。
——いいんだ、私が静かにしていれば、クラスのみんなは瑞希ちゃんを中心に笑っていられる。
友香を支えていたもの。それは中学時代に、自分が銀賞を取った際の「金賞」の絵だった。あの時、短期間ではあったが、自分の絵と共に県立美術館に展示された実物を見た。吸い込まれるような光の粒子、どこまでも透き通って、とても温かな情景。
どうしたらあんな絵を描けるんだろう?それは高校生になった今でも色あせずに、この目に焼き付いている。
——良い絵、だったな……
ふと友香が呟く。作者の人、名前、誰だったっけ?めい…何とかさん。たぶん男性だと思うけど、
——あの絵を思い出せば……なんとかやっていけそうかな……?
そうして、今日も友香は周りに誰もいない事を確認し、スケッチブックを開いた。




