第四十三話 銀賞と家族
話は、中学二年の秋に遡る。
金曜日の午後、西日が差し込む美術室。部活も終わりの時間が近づき、部員達が今日の分を描ききろうと、自分の作品にラストスパートをかけていた頃。息を弾ませて入って来た顧問の佐々木の声が響いた。
「汐見!こっちに来てくれ」
汐見友香は呼ばれ、佐々木の近くに立った。
「お~い!みんな!注目!県の絵画コンクール、汐見の作品が銀賞に選ばれたぞ!」
一瞬の静寂の後、室内がざわつく。友香は驚きで顔を赤らめ、部員達を見た。にこやかに賞賛を送る者。「え!マジで?」と驚きの表情を見せる者。様々な反応があったが、やがて惜しみない拍手で沸いた。
友香は一番に喜びを伝えたい水谷瑞希を見た。瑞希は今まで美術部で一緒にずっと頑張ってきたし、人一倍絵画にも情熱があった。そして、色んなコンクールにも出品した仲だった。
二人とも落選した時は励まし合って来たし、例え友香が落選して、瑞希が賞を取った時も、友香は自分のことの様にこれまでも喜んできた。だから今回も、絶対にこの喜びを分かち合ってくれると思っていた。
だが、瑞希は笑っていなかった。拍手もせず、ただ例えようも無い鋭い目で友香を凝視している。その瞳に宿る昏い光に、友香は違和感を感じたが、その時は銀賞を取れた喜びが上回り、それほど気にしていなかった。
部活が終わる放課後、いつものように一緒に帰ろうと瑞希に声をかけたが、彼女の反応は素っ気なかった。
「……今日は用事があるから、一人で帰って」
瑞希は友香と目を合わせようともせず、別の部員二人を伴って、足早に美術室を出て行ってしまった。
——瑞希ちゃん、ちょっとビックリしてるだけだよね……
一人残された友香は少し寂しさを感じつつも、そう楽観的に考えながらスケッチブックを専用の鞄に詰めた。自然に気持ちはまた「銀賞」へと移った。
この結果があれば、きっとお母さんも自分が望む美術科のある高校への進学を許してくれるはずだ。友香は一人、夕暮れのオレンジ色に照らされた廊下を歩き出す。
胸の中にあるのは、自分の未来への淡い希望と、この喜びを早く母親に伝えたいという事だけだった。
その夜、友香は母親に銀賞の事を報告した。
「おめでとう!良かったね!」
やはり自分の娘が賞に選ばれた事は嬉しいらしい。できれば機嫌の良い内に、話をつけておきたい。友香は意を決して母親に切り出した。
「お母さん……私、前にも言ったけど、美術科のある高校に行きたいの」
銀賞という結果が、自分に夢を見る資格を与えてくれると信じたかった。
その反面、わかってもいた。案の定、母親の表情が曇りだした。そして返答は冷ややかなものに変わっていく。
「……高校無償化って言ってもね、友香。寮生活や画材代、制服代だって馬鹿にならないの。今のうちの家計じゃ、とてもじゃないけど出せないわ」
「アルバイトもするよ、私、頑張るから」
「学生の本分は勉強でしょ」
母の声には、生活の疲れが滲んでいた。
——絵だって、勉強だよ……
友香はそう心で思いつつも、それ以上言葉を重ねることができなかった。
——お父さんなら、助けてくれるかもしれない
自分の部屋に戻った友香は、引き出しの奥にある一枚のメモを取り出した。何かの郵便物に記載されていて、こっそり書きとめた父親の住所。それが、友香が夢を繋ぎ止めるための最後の糸だった。
約四年前、友香が小学五年の頃に離婚し、この街へ引っ越してきて以来、父親にはずっと会っていなかった。
次の日の土曜。友香は朝早く電車を乗り継ぎ、たった一人でその場所へ向かった。
長い時間をかけて辿り着いたのは正午を過ぎた頃だった。潮風に晒されたような古い住宅団地。「四〇三号室」の前に立ち、震える指で呼び鈴を鳴らす。
「うぃーい」
妙な返事の後にドアを開けたのは、かつての記憶よりも、くたびれた父親の姿だった。白髪が混じり、当時の記憶よりずっと老け込んだその男は、目の前の少女を数秒見つめ、驚きに目を見開いた。
「……友香、か……?」
何を言えばいいのか、本当にお金の話をしていいのか。友香が迷っていると、父親の足元から、小さな男の子がひょいと顔を覗かせた。
「パパ!誰〜?」
「……いや、ただのお客さんだよ」
父親は友香から視線を逸らし、絞り出すような声で言った。
「ママ〜!パパのお客さんだって!」
男の子が奥に向かって叫ぶ。その声に応えるように、廊下の先から、お腹の大きな女性が笑顔で出て来たが、友香を見るとやや怪訝な表情を浮かべた。
その瞬間、友香の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。そこには、自分の知らない「家族」の完成された形があった。
「ちょっと出て話すか……」
父親がサンダルを履き、ドアから出ると同時に閉める。そして、目の前の手すりに両手を掛け、何の変哲も無い景色を見下ろす。友香も自然にそちらを向く。
しばらくの沈黙の後、父親が話し出す。
「光代は元気か?」
「……うん」
父の問いに、友香は短く答えるのが精一杯だった。かつて母を名前で呼んでいた父の響きが、今はひどく遠い国の言葉のように聞こえた。
「子供、いるんだ……」
友香が、無表情に聞き返した。あえて「弟」とは言わなかった。
「ああ。一人目は三歳半で、たかしって言うんだ。難産でな。今度、二人目が生まれる予定なんだ。女の子だ」
父親は少しバツの悪そうな顔を見せながらも、どこか幸せを噛みしめるように言った。
「ふうん……」
友香の胸の奥で、何かが冷たく、重く沈んでいく。そしてふと思う。
——計算……合わなくない?
両親が離婚したのが四年前、その子供の年齢が三歳半。どこか妙に説明のつかない時期が重なってる気がした。だが、これ以上深く考えると、場所を問わず発狂しそうになるので、やめた。
その時、急に空が暗くなり、激しい雨が降り出した。アスファルトを叩く雨音が、二人の間の気まずい沈黙をかき消していく。
「……じゃあ、もう帰るね」
「何か用事があったんじゃないのか?」
父が訝しげに尋ねる。友香は、美術科のある高校に行きたいこと、そのための学費が足りないこと、助けてほしいと思っていたこと。その全てを……飲み込んだ。
「別に、ただ……どうしてるかなと思っただけ。それじゃ……」
友香が背を向けた時、父が「ああ、待て」と彼女を呼び止めた。
「持ってけ。雨、降ってるから」
父が玄関から持ってきたのは、黒い、やや大きめの傘だった。友香はそれを無言で受け取る。
「あと、ああ……。クソっ、今ちょっと手持ちが無いんだよな。ああ、あったあった」
父はズボンのポケットをがさごそと探り、くしゃくしゃになった五千円札を一枚、友香に差し出した。
「ありがとう……」
友香はお礼を言った。
「本当はもっとあげたいところだが、今カツカツでな。ああ、ちょうど良かった。お前からも次の慰謝料の支払い、光代に待ってもらえる様に頼んでくれないか?
ちょうど色々と必要な時期なんだよ」
そうして父はニヤッと笑った。
——慰謝料の支払いの……延期?
友香の心が、その下は無い程に冷たい海の底へと辿り着いたのがわかった。目の前の男は、さっきまで新しい妻とお腹の子供を「幸せな家族」として紹介していた。
それなのに、女手一つで自分を育ててくれている母への支払いを削ってくれと、中学生の娘に頼み込んでいる。
——そんなの……自業自得じゃん!
喉まで出かかったその言葉を、友香は飲み込んだ。言ったところで、どうせこの男には届かない。彼にとって自分と母は、新しい家族の生活を圧迫する「負債」の一部でしかないのだ。友香は、自分の存在が父親の頭から完全に消え去っていることを、その身勝手な懇願によって確信した。
「これ、返す……」
父がくれた五千円札を、捨てるように投げ返した。拾いあぐねた父親が「おっとっと」と慌てた様子で、ようやく拾った。その動作がとても滑稽に思えた。
——もう絶対に来ない……
友香はさよならも言わず、その場を離れた。
「おい!友香!友香!」と父親の呼ぶ声にも反応せず、二度と振り返らなかった。
団地を出ると、雨が次第に強まっていった。叩きつけるような雨粒が、父から手渡された大きな黒い傘の布を激しく鳴らす。男性用のそれは中学二年の友香の体にはいささか大きく、重かった。
駅へ向かうまでの道すがら、友香は小さな公園を見つけた。生い茂った木々の隅に、古びた屋根付きのベンチがある。逃げ込むようにそこへ入り、雨宿りをすることにした。
ベンチに深く腰を下ろした。景色を眺めるが激しい雨で、どこも白く霞んで見える。そして、父から手渡された黒い傘を見る。先ほどまでの光景が、父の照れるような声が、呪いのように耳元で繰り返された。
『一人目は三歳半で、たかしって言うんだ。今度、二人目が生まれる予定だ。女の子だ』
友香は、父の傘をじっと見つめた。
「一人目と二人目……一人目と二人目……」
自分が入る余地など一塵もなかった、あの幸せそうな空間。
「一人目、二人目……一人目、二人目……」
何度も、何度も繰り返した。そのたびに、心が冷たい泥で満たされていくような感覚に陥る。そして、何度目かの呟きの後。友香の目から、堰を切ったように涙がぽろっとあふれ出した。
「一人目は……私でしょ!」
友香は、叫んでいた。喉を震わせ、張り裂けんばかりの声で、誰もいない公園の闇に向かって叫んだ。
その悲痛な叫びは、地面を叩きつける豪雨の音にかき消され、誰の耳に届くこともなかった。友香は顔を覆い、そのままベンチで泣き崩れた。




