第四十二話 希望の縁(ふち) 絶望の淵(ふち)
希望と絶望が入り交じる生殺しの様な感覚の中、あかりが玲に呼びかける。
「玲ちゃん、あの水たまりに何か落ちてる」
あかりの言葉に従ってライトを向けると、泥水の中に鈍い光を反射する物体がある。
息を止めて、それを拾い上げてみる。
「友香だ……、友香のスマホだ」
何度も見ているから、見間違う筈が無い。友香らしい落ち着いたパステルカラーの無地のケース。しかし、友香のスマホは防水のはずだが電源が入らない。
画面を見るとガラスが放射線状に大きくひび割れている。ここから水が入ってしまったのだろうか?亀裂の隙間にはまだ洗い流されていない赤いものもうっすらと見える。
「友香!友香っ!!!」
玲はライトで周囲を照らし呼びかけてみるが、友香の気配は無い。
「ここで何があったの……?」
「わからない……、でも血の跡はこの先にも繋がってる」
あかりも困惑の表情を示す。答えは出そうもない。玲は無言のまま、再び歩みを進める。しばらくすると、雨の音が再び聞こえ始めているのがわかった。トンネルもそろそろ終わりに近づいているのだ。
——生きてる、絶対に生きてる!
自分に言い聞かすように玲は何度も呟いていた。
「玲ちゃん……」
あかりが指差す方に視線を向けると、出口から差し込む微かな月明かりの中に、一つの黒い人影が浮かび上がった。思わず玲は走り出す。
「友香!」
玲は叫んだ。その人影は一瞬ビクっと動きを止めた後、ゆっくりと振り返った。友香だった。
ついに見つけた。生きていてくれたと言う安堵感に泣きそうになる。
しかし近づくにつれ、だんだんと友香の状態がわかってくる。そして、まだ安心はできない事を再認識させられる。
その顔は泥と血にまみれ、腕や顔には切り傷で血が垂れている箇所がいくつもある。足は靴を履いておらず、靴下はところどころ張り裂け、両足とも血が滲みだしているのが痛々しい。何より、尋常ではないほどに身を震わせている。
「玲……」
白い息と共に、よく耳を澄まさないとわからないほどか細い声で友香が呟く。
「私、もう、何も……わからない……」
「友香っ!」
「お……願い……こ……ないで……」
友香はどこまでも優しい。こんな状況になってまで、友人である玲を危険に晒さないよう遠ざけようとしている。玲は溢れそうになる涙をこらえた。
「友香、苦しいよね、痛いよね、あともうちょっと頑張って!絶対、楽にしてあげるから!」
ようやく、これを使う時が来た。玲はポケットの中身を取り出そうとした。
すると、玲の動きに呼応する様に、急に友香の表情が変化した。目つきに鋭さが増していく。
「ナヘ……」
「友香?」
「ナへすタごドスんズヤァアぁあアああアーーーーーーーーー!!!!」
来た……。あれだ。言語とも認識できないほどの叫び声がトンネル中に響きわたる。
——生きている人間は理解できないし、理解しちゃいけない言葉
灰島司の言葉が玲の脳裏をよぎる。いざ目の当たりにすると、その勢いに気圧されそうになる。
でも、負けるわけにはいかない。玲は小さな群青色の御守りを取り出した。そしてひもを自分の右手の人差し指と中指にぐるぐると巻き固定し、もう一度確認する。
『その御守りを、霊が取り憑いてる相手の体のどこかに触れさせるんだ。』
正直な話、半信半疑だった。悪霊とか除霊とか御守りとか、想像上の産物でしかないと思っていた。
しかし、これまでに友香は異常な行動を繰り返し、そして得体の知れない言葉を発した。この状況は、司の言う通りになってきている。
おそらく瑞希の悪霊が、友香の体と心を乗っ取る最終段階まで来ているのだろう。
なので、もはや信じざるを得ない。そして今まさに、これが玲の最後の切り札となった。
友香に触れるのは簡単だと思っていた。友香は決して運動神経が良い方ではないから。玲の持ち前の運動神経で翻弄させれば、御守りを触れさせられる、と思っていた。
しかし、それが間違いである事に気付く。
今、友香がその手に握っているのは、大きなガラスの破片だった。長い。ナイフに似た形をしている。その手からは血が流れる様な糸を引いている。ずっとあれを握っていたのだろうか?痛いはずだ。痛くないわけがない。それでも友香はそれを手放さなかった。
——下手を打てば……あれにやられて死んじゃうかな?
玲の脳裏にふと、そんな考えがよぎる、でも、まあいいかとも思える。相手が友香なら。
「ねえ、友香……」
玲は、目の前にいる友香とおぼしきモノに話しかける。
「これは大げさでも何でもないんだけどさ、私、友香のためなら……死ねるんだよ。」
その目は、優しさに溢れていた。
「玲ちゃん……、わたしにできる事は?」
あかりが後ろで心配の声を上げる。
「少し後ろに下がってて、自由に動きたいから。絶対に邪魔しないで!」
「わかった。今の友香ちゃんは正常じゃない。気をつけて」
玲は御守りの紐を指に巻いたまま、友香までの距離を目算する。
三メートル。いける。
玲は右方向へ踏み込み大きくダッシュする。友香の目は玲をしっかりと捉え、即座にガラス片の鋭く尖った切っ先を向ける。
それを察知し、玲はすかさず左へ切り返す。俊敏な玲の動きに、友香の反応が一瞬遅れた。その隙を突いて距離を半歩詰めた。もう一度右へ、これを繰り返せば!
その時だった。思いがけず左足が滑った。泥混じりの水たまりを踏んでしまい、体勢が崩れる。膝が地面につきそうになる。今度はその隙に友香が一歩踏み込み、玲に向け容赦なく鋭いガラスを振り下ろした。
体の後ろに重心をかけ、玲は倒れ込むように避ける。そしてそのまま一回転、二回転。それまで玲の居た場所から、カキーンとガラスとアスファルトがぶつかり合う乾いた音が聞こえた。
玲は何とか体勢を立て直す。その瞬間、横からガラスが再度襲いかかった。
「痛っ!」
友香は思ったよりも近づいていて、思ったよりもかなり低い姿勢で攻撃していた。ふと、ドッジボール大会の時のアンダースローが頭をよぎった。
危なかった。あの時の瑞希と違い、とっさにジャンプしたので、脛辺りが少し切れただけで済んだが、体勢によっては首の頸動脈が切れていたかも知れない。
玲は一度友香から離れ、距離を取った。よく見ると、友香のガラスのナイフの長さが半分になっている。今の攻撃で、割れたのだろう。
リーチが短くなったのは好材料だが、逆に振り回しやすくなったと言う事でもある。さらに、友香との間合いは振り出しに戻ってしまった。
玲は左手に持っていた傘に目を落とした。黒い傘。もともとは友香から借りた物だ。
——ごめん、友香。でも今だけは。友香を助けるために使わせて。
玲は傘を構え、友香に真っ直ぐ突っ込んでいった。
友香との距離を出来るかぎり詰め、玲はボタンを押した。黒い傘が友香の視界を塞ぐようにバッと広がった。
友香の動きが止まった。一瞬、そう、この一瞬の隙が欲しかった。友香のガラスを持つ腕が迷った。そこを逃さず玲は左手で、友香の右手首をがっちりと掴んだ。
ガラスを振ろうとする友香の動きを、根元から封じた。玲の手から離れた傘は、くるくると宙を舞い、暗闇の奥へ消えていく。
「うぁあああああ!!!」
友香は振りほどこうと身をよじる。思ったより力が強い。でも玲は離さなかった。そのまま体ごとぶつかるように友香を抱きしめ、両腕を封じ込めた。
友香の全身が、細かく震えていた。冷たかった。濡れていた。靴下のまま逃げ回っていた足が、どれほど痛いか。くぐもった叫びが、玲の肩に吸い込まれていった。
そして玲は友香のうなじへ、右手の御守りをグっと押し当てた。
——消え去れ!!
玲は心の中で叫んだ。
——友香から、今すぐ消え去れ!悪霊!!!
その時だった、友香の抵抗が格段に強くなっていくのがわかった。肌を通して、友香の何かが暴れ出しているのがわかる。まるで最後の脱出口を探すように、友香の全身がぐねりと動いた。腕が、脚が、いつもの友香とは別の意志で動こうとしている。
女子の中では力の強い部類の玲でさえ、抑えきれるか不安になるほどだった。
こらえろ!こらえろ!御守りはもう友香のうなじに触れさせた。あとは時間の問題だ。
こらえろ!こらえろ!抑えてた涙がこぼれるのを……
「お願い、友香、元の……友香に戻って……!」
友香の呼吸が荒い。玲の首筋に、冷え切った吐息が当たる。まだ暴れている。まだ瑞希がそこにいる。離すな。絶対に離すな。
何分経っただろうか。少しずつ、友香の呼吸が変わっていった。
荒かった息が、徐々に静かになっていく。震えも薄れてきた。張り詰めていた全身の力が、ゆっくりと抜けていく。
「玲?」
声が変わった。あの頃の声だ。いつもと変わらない、友香の声、久しぶりに聞いた気がする。
「友香……!」
玲は目を閉じた。よかった。友香を取り戻せた。ここに戻せたんだ。
そのままギュッと抱きしめた。
その時だった。
「玲ちゃん、上!!」
あかりの声が鋭く突き刺さった。
次の瞬間、頭上で地鳴りのような音がした。見上げると、天井が大きく割れている。そして巨大なコンクリートの塊が、重力に引きずられるように、二人の真上に落ちてくる。
玲は咄嗟に、友香を抱きかかえ出口に向かって、思い切り飛び込んだ。
ズドーーーーーン!!
鼓膜を突き破るような地響きを立てて、地面が揺れる。砂埃が舞い、視界が白く濁る。
そして、トンネルの入り口は完全に塞がってしまった。
「……はぁ、……はぁ、……っ」
降りしきる雨。冷たいアスファルトの上、玲は激しく荒い息をしながら、自らの下に抱きかかえた友香の無事を確かめた。危なかったが、巨石の下敷きになることだけは免れた。
腕の中の友香は動かない。だが、微かな、しかし確かな呼吸の音が玲の耳にも届いた。
「……はあ、……よかった」
玲の胸に、底知れぬ安堵が広がる。司から託された御守りを使い、友香に取り憑いていた瑞希の呪いは今、全て取り除いたのだ。
ようやく、ようやく友香を取り戻した。
「……友香。大丈夫だよ、もう、どこにも行かせない。これからずっと、一緒だよ」
愛おしげに呟き、友香の頬に触れようとした、その瞬間だった。
友香の血走った目が、クワッと見開かれた。
「あ……」 歓喜に震えた玲の声は、次の瞬間、絶叫へと変わった。 友香は操り人形の様な不自然な動作で、首から上を勢いよく起き上がらせた。直後、玲の脇腹に、かつてない激痛が走る。
「……っ、あ、がっ……あぁあああ!」
焼けるような、引き裂かれるような痛み。玲は反射的に、友香を突き飛ばすようにして距離を取った。そして、崩落した瓦礫に背を預け、ずるずると座り込む。震える手で激痛の走る部分に触れると、指先が熱い液体で濡れた。そこには、友香がずっと握りしめていたガラスの破片が、深々と突き刺さっていた。
——そんな……そんな、どうして……?御守りは、効かなかったの?
友香がゆっくりと立ち上がる。そしてゆっくりと玲に近づいてくる。長く髪を垂らし、その表情を窺い知ることはできない。
瑞希の呪いが、まだ友香を離してくれないのか?それとも、御守りが効かなかったのか?
絶望の淵で、玲の脳はもはや正解を導き出すことを拒んだ。
「玲ちゃん!玲ちゃん!」
次第に体温が奪われ、あかりの囁きさえも聞こえなくなっていく。
薄れゆく意識の中、玲が最後にかろうじて発した言葉は、ただひとつの名前だった
「お願い……ゆ……か………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………り」
玲はそのまま、底の見えない闇の中へと沈んでいった。
第一部 「玲の章」了
第二部 「友香の章」へ続く




