第四十一話 吠崎(ほうざき)トンネルにて
「……ここだよね、あかり?」
玲は、その方向を指さし、返答を待ちきれずに隣を向いた。あかりは無言のまま頷く。
「吠崎トンネル、旧道につき管理外、立入禁止」。無造作に放置された看板にはそう書かれている。
時刻は既に夜十時を過ぎている。その石造りの巨大な入口の前に、二人の少女は立っていた。トンネルの奥からは、夜の闇を吐き散らす冷たい風が常に吹き出ている。
人影もなく、周りは見渡す限りの森林。道路は長年舗装もされず、アスファルトの破片があちこちに散らばっている。雲の切れ間からのぞく月明かりと、時折ちらつく街灯だけが周囲をほのかに照らしている。そして、今もずっと降りしきる雨。
玲は、傘の柄をもう一度強く握り直した。傘にぶつかる雨音は次第に強さを増していき、どこか自分の恐怖心をも増長させる。
「友香ちゃんはきっとこの奥にいる。大丈夫、絶対に見つかるよ」
あかりの澄んだ声が返ってくる。彼女はこれまで、玲が欲しいタイミングで必要な安心を与えてくれた。ただ、こんな状況ではそれも束の間だった。
さらに、トンネルの奥を覗けば、このまま入っても良いものか、再び迷いが生じてしまう。
じめりとした腐葉土の匂いと、錆び付いた鉄臭い湿り気が混ざり合って漂ってくる。玲は目をつむり、小さく息を吐いた。もう引き返せないような、そんな予感に足がすくむ。
「怖い? 玲ちゃん?戻ってもいいんだよ。あとは警察に任せてもいいんだし」
あかりが顔を覗き込んできた。
「……大丈夫。友香は、あの子は私が助けなきゃいけないから。それに警察に保護されても、それは本当の解決じゃない」
——そうだ、怖がってる場合じゃない。友香は、今もこのトンネルの奥で私を待っている。
玲は自分に言い聞かせるように呟いた。
「そうだね。玲ちゃんと友香ちゃんと私。三人で、またあの頃みたいに戻るためにも……」
あかりの言葉は、玲が聞き続けていたい唯一の正解だった。あの時の友香に戻ってくれるなら、どんな事だってする。
友香、人をこんなに心配させて、いろいろ文句の一つでも言いたい事はあるけれど、今はもう、そばにさえいてくれれば、それだけでいい。
右手にずっしりと重く感じていた傘を畳み、両手でしっかりと掴んだ。もしかしたら武器として、少しくらいは役に立つかも知れない。でも残滓には、どうしようもないだろうけれど……。
玲はあらためてあかりと顔を見合わせる。
「行こう……」
二人は光の届かない闇の奥へと足を踏み入れていった。
天井はかなり高かった。古い石積みで、要所要所に補強のコンクリートが継ぎ足された跡。その上をなぞるように更に経年劣化のひび割れがある。
トンネルに入ってから雨の音は少しずつ聞こえなくなっていった。二人の足音は、壁に反響し、奇妙に重なり合い、まるで一つの様に聞こえてくる。
焦りと恐怖が交互にやってくる。こんな暗い場所なんて、本当はすぐにでも逃げ出したいくらいだ。一歩進むごとに暗闇がまとわりつく様で、足取りは重くなっていく。まるで泥沼でも歩いている気分になる。
もしかしたら、残滓の影響を自分もすでに受けているのだろうか?
ふと玲の脳裏にそんな思いがよぎる。
それでも友香を助けられるのは自分一人なのだと思うと、何とか踏みとどまれる。
トンネルの中は使われなくなった土嚢や錆び付いたハシゴが、かなり乱雑に置かれていて足場も悪い。
「玲ちゃん、そこ気をつけて」
あかりの言葉に従って、スマホのライトを前方に照らすと、どこかの国の地図みたいな形で道路が陥没していた。
底は深くないが、気が付かなければ足を踏み外してケガをしていたかも知れない。
「ありがと、あかり」
「気をつけてね」
思ったよりも長いトンネルだ。友香はまだずっと先なのだろうか?
しばらく進むと、積み上げられた土嚢が行く手を阻むように壁を作っていた。崩れかけたものもあり、泥と苔で黒ずんでいる。何とか通り抜けられはするが、足場はさらに悪くなった。
玲は足元を確認しながら、わずかな隙間をくぐり抜けた。
その時、土嚢の側面にある何かが、ふと玲の目を引いた。
薄汚れた麻袋を染める、赤黒い染み。
玲はしゃがみ込んで、光を近づけた。滲み込んだような五センチほどの血の跡だった。それが数カ所に点在している。それらに光を当てたまま、じっと見る。
滴っていた。まだ、垂れていた。
「新しい、かも……?」
声が震えた。血が乾く間もないほど少し前に、ここを誰かが通った。
友香が、ここを——?
切り傷にしては出血量が多い気もする。友香が瑞希を受け止めた後に流れたおびただしい血。一度味わったあの最悪の状況が玲自身のトラウマとなり、再び頭の中で広がっていく。しゃがんだまま立ち上がれそうになかった。
「……あ、あかり」
やっと絞り出せた声。しかし、あかりからの返答は無い。
「あかり、もしかして、これって友香の……?」
「玲ちゃん」
あかりの声が、いつもより低い様に感じる。
「立って。友香ちゃんを連れ戻すんでしょ」
「でも、友香の血だったらどうしよう……?」
「立って」
繰り返した言葉は短かったが、有無を言わせない響きがあった。
「……うん」
ふと我に返り、玲は立ち上がる。そして光を前に向けた。
赤黒い点は、この先にも続いていた。
不規則な間隔で、奥へ向かって。一つ、また一つ。
どれも乾ききっていない。どれもまだ新しい。ついさっきまで、友香がここにいた。それだけは分かった。
玲は歩き続けた。
気づけば、染みは大きくなっていた。点から、にじんだ線へ。壁の低いところに、何かが触れたような痕もあった。
怖じ気づきそうになりながらも、玲はもう目を逸らさなかった。
逸らしたら、また立ち止まってしまう気がした。
「あかり、友香はまだ先?」
「うん」
「……大丈夫だよね?」
一拍、間があった。
「急いだ方がいいかもしれない、玲ちゃん」




