第三十七話 群青色の御守り
「何? どうしたの、司くん!」
司は返事しない。ただ、一刻も早くここを抜けようと必死に見えた。
美術館の外、それまで暖房に温められていた体が急激に冷える。しかし司は止まろうとしない。何の目的地も無いまま、司と玲はただただ走り続けた。
「司くん!もういいでしょ!ストップ!」
どれくらい走っただろうか。やがて、司の肺が疲れと冷たい空気に耐えられなくなった頃、ようやく走りを止め、玲の腕を放した。
ハア、ハア、ハア、ハア。司は肩で息をしながら、口から出たよだれを拭う。
「何? 何があったの?司くん!」
玲が問い詰める。司は、怯えたように周囲を何度も見渡し、近くにあった縁石に全体重を任せる様に座り込む。
「見られた、ヤバい、見られたんだよ!なんでだ……?ありえない……。あんだけ人がいたんだ。残滓もほとんど無くて、遺光の方がかなり溢れてた!念には念を入れて『無詰ノ歩』まで張ってたのに……」
「むつ……?え?何?」
司は玲の質問に答えない。やがて意を決した様に立ち上がる。
「それなのに、見られた。……もう、俺はここまでだ」
「え? 霊視は?」
「ごめん。……もうそれどころじゃなくなった」
司は震える手で顔を覆い、一刻も早くこの場を立ち去りたいという様子だった。
「どうしたの?玲ちゃん?」
突然、あかりが現れた。
「あかり……もしかして外で待ってたの?」
「うん、美術館で何かあったの?」
「ちょっとわからないけど司くん、友香に何か感じたらしい……」
「そうなんだ、何があったの?灰島くん?」
司は顔を押さえたまま答えない。そして何も言わず、その場を離れようとした。しかし、数歩進んだところで、彼は何かに抗うように足を止めた。
「……ああ、クソ!」
司は吐き捨てるように叫ぶと、再び玲の元へ戻ってきた。
「一応、持ってきてはいたんだ。除霊に使うものを。……本当は、できれば危険だから渡したくなかったけど、今から渡すから」
「え? 除霊?」
戸惑う玲の前に、司はポケットから群青色の小さな御守りを取り出して見せた。
玲が腕を伸ばし、それを掴んだ瞬間、司はなぜか、自分から渡したはずの御守りから手を離そうとしなかった。御守りは、彼の指が白くなるほど強く握りしめられている。
それは、本当に渡して良いのかどうか?その葛藤に苦しんでいる様にも見えた。
「……司、くん?」
玲が不審げに名前を呼ぶと、司はハッとして、弾かれたように手を離した。御守りが玲の手に完全に収まった際も、司の体は小刻みに震えていた。
「今回だけは……今回だけは本当にしくじった……」
「え?」
司は玲の戸惑いを無視して話し始める。
「……この御守りには、残滓を『反転』させる効果がある」
「反転?」
司は声を潜め、禁忌を教えるかのような真剣な面持ちで説明を始めた。
「ああ、うちに代々伝わる『変成石』って言う石の欠片が入れてあるんだ。もちろん、悪霊に使うのが最も効果的だ。残滓が消えて、遺光へと転換される。」
「じゃあ、これを使えば友香も治るって事?」
「……でも、良いことばかりではないんだ。もし使い方を誤れば、逆に『遺光』を『残滓』に変えてしまう。そして、それがこの御守りを使った人に不幸と言う形で跳ね返って来るんだ。」
「それは……良い霊の『善霊』だっけ?その霊が放つ良いモノを悪いモノに変えてしまうって事?」
「ああ、さらにヤバいのは、取り憑かれてない、普通の霊感の無い人に使っても残滓が生まれてくるって事だ」
「え、それ、どういう事?」
「悪霊には効くけど、普通の人に使ったらアウトって事だ」
玲は手の中の御守りを見つめたまま、小さく眉をひそめた。
「悪霊を退治するための道具を、何もない人に使ったら、逆に残滓が生まれちゃうの? それって……リスクあり過ぎじゃない?御守りとして、どうなの?」
「そうだな、本当は御守りなんて生易しいものじゃない。だからこそ門外不出で灰島家が管理してた。でも、そうも言ってらんなくなった……」
司の顔が徐々に生気が吸い取られる様に青ざめていく。
「ねえ、これを渡したって事は、友香に悪霊が憑いてる事で確定ってこと?」
「完全に霊視はできなかったけど、俺の中では友香ちゃんに何も感じなかった。全然感じなかった!
なのに、俺たちの事を認識していたのがはっきりとわかった。あの目を見たとき、単純にビビッちまった……あれは十中八九、悪霊が憑いてる……」
「やっぱり瑞希なの?」
「おそらく……」
「もしそうなら、これは使い方を慣れている司くんが持ってた方がいいんじゃないの?」
司が首を振る。
「……俺も自分でやりたかった。でもダメなんだ。俺はもう、一度使っちまったから……しばらく使えないんだ……」
「もう使ったって?いつ?」
玲の言葉に、司は小さく息を呑んだ。さらに問い詰めようとした玲の言葉を遮るように、司はガタガタと震えながら、自分のカバンを強く抱きしめた。その目はすでに玲を見ておらず、駅のある方向へと向けられている。
「とにかく、俺の役目はここまでだ! 使ったお金は、後日、必ず返すから!」
「ちょっと待って!この御守りの使い方を聞いてない!」
玲が叫ぶ。
「その御守りを、霊が取り憑いてる相手の体のどこかに触れさせるんだ。ただ、忘れないでくれ!それを使うのは悪霊が本性を現した時だけだ!」
そう言うと司は走り去り、行ってしまった。




