第二十一話 手術室の夜
静まりかえっていた廊下に、乱れた足音が響いた。顔を上げると、血相を変えて駆けつけてくるクラス担任の大谷と、友香の母親の姿があった。
「雨宮!」
大谷が、血まみれの制服のままベンチに座り込む玲の姿に絶句した。隣に立つ友香の母親も、娘の親友の姿を見て、言葉を失い立ち尽くしている。
「……先生。友香のお母さん……」
友香の母親とは、彼女の家を訪れた際に一度面識があった。玲は、力なく立ち上がり頭を下げる。あかりも玲に倣って挨拶をした。大谷は玲の肩に手を置き、そのまま玲を座らせ、言葉をかけた。
「……雨宮、君も大変だったな。怪我は……ないか? 警察からの連絡で、汐見にずっと付き添っていたと聞いたよ」
玲は大谷の言葉に答えず、友香の母親に向き直った。そして、堰を切ったように目から大粒の涙をこぼした。
「私、友香を、友香を守れなかったです……。友香が何をするか、私がもっと、もっと早く気づいていれば……」
「あなたが気に病むことなんて何もないのよ、玲ちゃん」
友香の母親は、玲の肩を抱き寄せた。
「友香を助けようとしてくれたんでしょう? ありがとうね。本当に、ありがとうね」
そして玲と二人、涙ぐんだ。あかりもやるせない表情を浮かべる。
しばらくして、息を切らせた田中と佐藤も手術室の前へと駆けつけてきた。二人は、大谷と友香の母親の姿を見て、一瞬足を止めて軽く会釈をした。しかし、その視線はすぐに、血に汚れたままの玲へと向けられた。
「雨宮……何があったんだよ」
田中が、静かに問いかけた。玲は、涙を拭いながら、静かに事の顛末を語り始めた。
屋上から飛び降りた瑞希。そして、それを自らの体を投げ出して受け止めようとした友香。
「……飛び降りた瑞希を……受け止めようとした? バ……」
田中は「バカか、あいつは!」と言いそうになった言葉を、隣にいる友香の母親の手前、ぐっと喉の奥へ押し戻した。そして、顔を歪めながら言葉を継いだ。
「……あいつらしい。本当に……あいつらしいよ」
佐藤は、玲の言葉を聞いた瞬間、口を手で押さえて激しく嗚咽し始めた。瑞希という支配者を共に倒し、自分たちが手にしたはずの「自由」の結果に、涙をこらえきれなかった。
「そういえば、瑞希はどうなったんだ?」
田中の問いに、玲の表情が冷めていく。
「……知らない、どうでもいい」
担任の大谷の前で不適切に思えた返答だったが、大谷は何も言わなかった。
手術室の赤いランプは、依然として消える気配がないまま、夜の九時三十分を回りつつあった。
時折通り過ぎる看護師の足音と、遠くで響く救急車のサイレン。担任の大谷が、生徒たちに振り返る。
「……もう遅いから、君たちは帰りなさい。あとは私とお母さんで待っているから。明日も学校があるんだ。もう十分付き添ってくれたから。」
大谷の促しに、田中と佐藤は顔を見合わせたが、玲だけは動かなかった。ベンチに根を張ったかのような姿勢で、赤い光を見つめたまま、絞り出すような声で返す。
「……友香が大丈夫だってわかるまで、いさせてください」
その頑なな拒絶に、友香の母親が痛々しい表情で玲の隣に座り、その肩に手を置いた。
「玲ちゃん……気持ちは嬉しいけれど、ご両親が心配するわ。今日はもう、お帰りなさい」
「私、一人暮らしだし……待っていても、誰も心配しません」
玲の淡々とした告白に、母親と大谷は一瞬だけ言葉を失ったが、再度大谷が玲に言う。
「それでも、みんなと一緒に帰りなさい。何かあったら連絡するから。」
結局、それ以上そこにとどまることは出来ず、みんな帰ることになった。
病院の玄関を出たところで、田中が玲に声を掛けた。
「雨宮!とりあえずこれを着ろ……」
田中は自分が羽織っていたカーディガンを雨宮に着せた。
「その姿だと、あの……ちょっと目立つからな。制服の替えはあるのか?」
「ある……ありがと……。今度洗って返すから。」
佐藤がさらに玲に声をかけようとしたが、今まで見たことのない玲の憔悴しきった姿を見て口を閉ざした。
「じゃあな……」
田中がそれだけ言うと、二人は玲と反対方向へ帰って行った。
玲はそれから放心気味でとぼとぼと歩き続け、やがて自宅にたどり着いた。
オートロックの重厚なエントランスを抜け、静音設計のエレベーターが音もなく上昇する。
自分の階にたどり着いた玲は、玄関前にある冷たい金属製のセンサーに顔を向ける。微かな電子音と共に生体認証が完了し、重々しいロックが解錠される。進む度に照明が点灯する廊下を渡り、生活の匂いが一切しない部屋をいくつも通り過ぎ、玲はようやく寝室のドアを開いた。
血の付いた制服を脱ぎ捨てる気力さえなく、数々の絵画に囲まれたクイーンサイズの大きなベッドにそのまま倒れ込む。
「あかり、今日は……もう、疲れた」
「そうだね……」
「友香……友香……どうして……?」
しばらくは、うわ言のような呟きを吐いては体を震わせる、そして泣く。その繰り返しだった。やがて涙の跡も渇ききった頃、ようやく玲の寝息が一定のリズムを刻み始めた。
あかりはベッドの横にそっと腰掛け、カーテンの隙間から差し込む青白い月明かりをただじっと眺め続けていた。




