第十七話 ラストシュート
内野のコートに残っているのは、もはや友香たった一人になっていた。
一人……それは今までだって自分の日常そのものであったし、慣れていたはずだった。それでもいつも、耐え難いほどの心細さと、ここから逃げ出してしまいたいという恐怖に駆られていた。
けれど今、友香の胸の中にそんな感情は不思議なほど湧いてこなかった。それが自分でもおかしくて、少しだけ不思議に思う。
ふと、このコートの外で見守ってくれている仲間達のことを思った。
最初は瑞希の顔色を伺い、友香を「お荷物」のように扱っていた田中と佐藤。
あの時は、絶対に分かり合えないと思っていた。けれどこの大会を通して、
田中の、仲間たちに放つ熱い鼓舞や応援、
佐藤が身を挺して自分を守ってくれた、その熱い覚悟に体が震えた。
今まで隠れて見えなかった、人の心の温かさに触れた気がした。
そして、友香のことを何度も必要だと言ってくれた玲。
玲が最後に彼女の両手にそっと託したボールの重みが、手のひらを通し自分の弱くて折れそうな心をがっちりと支えている。
友香はボールを両手で包み込み、祈るように額に押し当てた。
体育館の喧騒が遠のき、周りが深い静寂に包まれるくらいにまで集中し、自分の中にある何かを呼び起こす。
一秒、また一秒。あまりに長い沈黙に、審判が遅延を咎めるべく笛をくわえ直した。
その瞬間だった。友香の体がしなり、投球の姿勢へと移った。
対峙する瑞希の表情には、玲を相手にしていた時のような緊張感はもう微塵も無かった。あるのは、格下に対するあからさまな侮蔑と、「ようやくこの茶番が終わる」という確信だけだった。
これから、友香は全く力のないパス同然のシュートを放つ。自分はそれを悠々《ゆうゆう》と受け止め、そのまま返り討ちにして優勝を勝ち取る。そして願いを完遂させる。
その後は、あいつ、雨宮玲だ!あの姿はもう自分の視界にいれたくない!二度と学校にいられないくらいに、その存在の何もかもを徹底的に消し去ってやる!
瑞希の頭の中には、すでに勝利まで、そして勝利以降の完璧なシナリオが出来上がっていた。
しかし、友香の手から放たれたのは、瑞希が動画で見た「弱々しい投球」ではなかった。
床すれすれから放たれる極端に低いフォーム。それは、ボールと床との距離を数センチに保ったまま、揺れる様な弾道で瑞希の足元を狙っていた。
「——っ!?」
予想外の伸びを見せるボールに、瑞希の身体が反射的に浮き上がる。ジャンプで躱そうとしたその刹那、先ほど玲が放った挑発が鮮烈に蘇った。
『瑞希! 友香から逃げんなよ〜!』
この、言葉の呪いこそが玲が仕掛けた一つ目だった。
ほんの一瞬、中学時代に友香の絵を見た時の絶望感が、瑞希の脳裏に強烈にフラッシュバックする。
「逃げ」という言葉への過剰な拒絶反応が、瑞希の足をコートに縫い付けた。
——私は逃げてない!
女王としての矜持がジャンプを中断させ、無理やり腰を落としてキャッチを狙うという、最悪の選択を取らせた。
友香の、そのひ弱な外見からは想像もつかないほど、ボールには強烈な「回転」が掛かっていた。
「……夜、近くの河原に行ってさ、色んな投げ方を試させたんだ。友香が運動《《からっきし》》なのは事実。ほとんどの投げ方は全然ダメだった。けど、《《あれ》》だけは……なんていうか、異様なほどハマったんだよね」
「あれ?」
田中が不審そうに顔をゆがめる。
「あの、地を這うような低い弾道。そして指先を離れた後にも残る、切れ味のある回転。あ、これイケるって思った。瑞希がどんなに完璧なデータを持ってても、あれ一つで全部ゴミにできる。そう確信できるくらい、友香のあの投球は、ゾッとするほど特別だったんだ。だから友香にはあれだけをずっと練習させてた」
玲は続ける。
「もし私があの場に残っても、瑞希は決して油断しなかった。あいつも願いを叶えるのに必死だからね。だから、友香のアンダースローを最後の最後に瑞希にお披露目するのが仕掛けの二つめ!」
玲がちょうど田中に説明を終えた頃だった。
瑞希の両手がボールを捕らえたと思った瞬間、暴れるような回転が彼女の手を容赦なく弾いた。
パシィィィンッ……!
ボールは、瑞希のすぐそばの床に落ち、やがてシュルンと虚しい音を立て静かに転がっていった……。
直後、長い一日の終焉を告げる最後のホイッスルが体育館に鳴り響いた。
「試合終了……!」
一瞬の静寂。そして、信じられないものを見たギャラリーからの、惜しみない歓声。
それは、誰からも注目すらされなかった一人の少女が起こした奇跡の瞬間だった。
湧き上がる興奮の渦の中、ただ一人、
瑞希だけが、床に転がるボールを見つめたまま、微動だにしなかった。
その唇が、かすかに震える。
「……助け、られなかった……」
呟きはすぐに歓声に消された。
その言葉を聞き取れたのは、瑞希に最も近い友香だけだった……




