【第九十五話】ゴリラの姉
――時間は少し遡る。
〈フェルコルクス王城・地下〉
ヒナノと別れた後、オボロは一人で警戒と探索を続けていた。
薄暗い地下通路を静かに進み、一つの保管室へ入る。
「……そろそろいいんじゃないですか?」
不意に、室内に風が入り込み甘い香りが広がる。
「――にゃはは」
背後から聞き慣れた笑い声が響く。
「さすがですねぇ」
「ちゃんと気付いていましたか」
オボロは振り返らない。
「……パシャ」
柱の陰から一人の女が姿を現した。
口元には、いつもの笑み。
猫のように細められた目。
「にゃはは」
「久しぶりですねぇ」
オボロは短剣に手を添えたまま答える。
「帝国軍諜報部が、この場に何の用ですか」
「怖いですねぇ」
「私はただのおしゃべり好きですよ?」
「貴方については、信用していませんので」
「その笑い方も含めて」
「にゃはは」
わざとらしく笑うパシャ。
「いい加減その笑い方を辞めたらどうですか」
「――フェリス」
その瞬間だった。
口元の笑みが消える。
背筋が僅かに伸びる。
だが、すぐにいつもの笑みを作る。
「……にゃはは」
「女の名前を間違えるなんて大罪ですよ」
「……そういう態度なんですね」
静寂が室内を包む。
オボロが口を開く。
「ナナセ様のご友人に“筋肉ゴリラ”がいるのですが」
「その人物が、ペンダントロケットをとても大事にしているんですよ」
鋭い視線を向けるオボロ。
「……そこに映っていた人物に似ているなと思いまして」
笑顔を崩さないパシャ。
「……にゃはは」
「飛躍的過ぎる話ですね」
「ですが」
「姉を大事にしている、素敵な男性の話は嫌いじゃないですよ」
懐から一枚の色紙を取り出す。
「そのお礼に、私もいくつかお伝えしましょうか」
「――帝都で政変が発生しました」
「帝国軍ソトカ元帥が最高総統府を掌握」
「帝国軍は現在、各方面軍へ撤退命令を発令中」
「フェルコルクスも例外ではありませんね」
色紙をオボロに向かって投げるパシャ。
そこには、見たことがない紋章だけが書かれていた。
「諜報部の人間が情報を渡していいのですか」
「“帝国”の情報を収集するのが私の任務ですからね」
パシャは静かに続ける。
「ですが――問題は政変ではありません」
オボロの目が細くなる。
「再軍備の際に、中枢に入り込んでくる奴らがいるでしょう」
「オルフェとか」
――オルフェ。
シドーで商業ギルドの幹部として暗躍し、孤児院の地下で怪しい実験をしていた人物。
ナナセの目の前で逃亡した、死にぞこない。
「……懐かしい名前ですね」
「――真聖会」
パシャの一言に空気が変わる。
「知らない組織でもないでしょう」
「聖アスルード公国に本山を置く、教会一派」
「オルフェはそこの幹部です」
「――彼らは近いうちに必ず動きますよ」
「帝国がまとまったら、フリニア王国の王都に攻め込むでしょう」
「――なんのために」
オボロの問いに笑みを浮かべるパシャ。
「――“鍵”が王都にあるようです」
パシャの言葉を待つオボロ。
しかし、パシャはゆっくりと入口に向けて歩きだしていた。
これ以上は話すつもりはないとでも言うように。
「……そういえば」
足を止めて振り返るパシャ。
その顔には、企んでいるような笑みが浮かんでいた。
「先ほど話に出ていた筋肉ゴリラですが……」
「そいつがほれ込んでいる酒場の女性がいますよね」
「とても歌が上手なようですね」
「――その方に一曲歌ってほしい歌があるんですよ」
「“猫と七年花”という曲です」
怪訝な顔をするオボロ。
「その筋肉ゴリラなら意味は分かると思いますよ」
笑みを浮かべるパシャ。
ただ、これ以上の答えは返ってきそうになかった。
静かに頷くしかないオボロ。
「……伝えます」
「にゃはは」
「お願いしますね」
「では、星の導きがあれば」
「また会いましょう」
保管室の中に甘い香りが広がる。
突風が急に吹き、目を細めるオボロ。
目を再び開けた時には、そこには誰もいなかった。
「……風の精霊魔法使いなら潜入も容易いでしょうね」
先ほどの会話を思いだすオボロ。
「“姉”とは一言も言っていないのですがね……」
「ゴリラの姉が猫ですか」
「――面白い冗談ですね」
オボロは口元に笑みを浮かべる。
「報告することが多くて大変ですよ」
ナナセの待つ大広間に向けて、静かに歩きだしていた――
【第九十六話へ続く】




