【第九十四話】勝ち逃げ
〈フェルコルクス王城・庭園〉
庭園は、もはや原形を留めていなかった。
石畳に刻まれている幾重もの刀傷。
地面に広がる無数の水たまりと地面から突き出した氷柱。
それらは月明かりを反射していた。
激しい戦闘の痕跡。
その中心で。
二人の剣士が向かい合っていた。
キショウの衣服には、いくつもの裂け目が走っている。
頬にも、浅い傷が一つ。
それでも、呼吸は乱れていない。
長太刀を握る手にも、まだ余裕が残っていた。
対するサツキは――
全身に傷を負い、衣服のあちこちを赤く染めていた。
肩で息をする。
双剣を握る腕が震えている。
袖口や足元には、血が滴っていた。
それでも。
切っ先だけは、決して下がっていない。
「はぁ……はぁ……」
息を整えながら、サツキが一歩踏み出す。
脚が震えた。
それでも。
さらに一歩。
キショウが、その姿を静かに見つめている。
「まだやるのか」
「……当然よ」
サツキが双剣を構え直す。
「私はまだ……負けてない」
「そうか」
キショウが笑う。
「身体はとうに限界を超えているぞ」
「……だから?」
「痛覚を捨てたところで、傷が消えるわけではない」
「筋肉は裂ける」
「骨も軋む」
「身体は確実に壊れていく」
キショウが長太刀を肩へ担ぐ。
「……それでも立つか」
「あなたを斬るまではね」
「……ククッ」
キショウが小さく笑った。
そして。
自らの頬を指でなぞる。
指先に、赤い血が付着した。
それを見て。
笑みを深める。
「見事だ」
「以前の貴様なら、俺にこれをつけることすら叶わなかった」
サツキは答えない。
双剣を握る手に、再び力を込める。
「力」
「速さ」
「技量」
「どれも以前とは比べものにならん」
キショウが長太刀を下ろす。
「何より――」
サツキの目を見る。
「限界を超えてなお、剣だけは死んでいない」
僅かな沈黙。
「良い剣士になったな――サツキ」
サツキの目が僅かに見開かれた。
だが。
すぐに双剣を構え直す。
「褒めても何も出ないわよ」
「知っている」
「それに」
サツキが踏み込もうとする。
「まだ――」
その瞬間。
「――サツキ!!」
聞き慣れた声が庭園へ響いた。
サツキの動きが止まる。
庭園の入口から、一人の少女が駆け込んでくる。
「……ヒナノ?」
「ちょっと……何その姿!」
ヒナノの表情が一変する。
サツキへ駆け寄ろうとした瞬間。
「来ないで!」
サツキの鋭い声に、ヒナノの足が止まった。
「まだ終わってない」
「……」
ヒナノがキショウを見る。
ヒナノが剣の柄へ手を伸ばす。
「――あんたがやったの?」
キショウがヒナノを見る。
それでも、剣を抜かないヒナノ。
「……抜かないのか」
サツキに視線を向けて、すぐにキショウを睨むヒナノ。
「……まだ、サツキの戦いは終わってないから」
「サツキの覚悟を踏みにじることはできない」
「このままだと死ぬぞ?」
笑みを浮かべるヒナノ。
「殺すつもりはないんでしょ」
「……なぜそう思う?」
「――女の勘」
静寂が庭園を包む。
キショウが刀を鞘に納める。
「……便利な言葉だな」
「……まだ終わってないわよ」
サツキが睨む。
キショウが静かに答える。
「興が削がれた」
「ふざけないで」
「別に貴様から逃げるわけではない」
「だが……」
「次に会う時が楽しみになってきた」
「――ただそれだけだ」
キショウはヒナノへ視線を向ける。
「そこの女」
「……何よ」
「その馬鹿を治療してやれ」
「馬鹿って誰よ」
「貴様以外に誰がいる」
サツキが眉をひそめる。
だが、不意に膝が崩れる。
「サツキ!」
ヒナノが駆け寄り、その身体を支える。
「離して」
「嫌よ!」
「まだ戦える」
「立ててもないでしょ!」
「……」
サツキは反論しようとする。
だが。
身体に力が入らない。
ヒナノの肩を借りながら、辛うじて立っていた。
その姿を見て。
キショウが小さく息を吐く。
「貴様は限界を超えて斬りすぎる」
「相手の呼吸も大事だが、自分の呼吸も意識したまえ」
「それでは、いつか剣より先に身体が折れるぞ」
「……余計なお世話よ」
「そうか」
キショウが背を向けようとした。
その時。
「――キショウ様!」
庭園の入口から帝国兵が駆け込んでくる。
キショウが振り返る。
「何だ」
「帝都より緊急連絡です!」
「――最優先命令が発令されました」
兵士が息を整える。
「帝都で政変が発生!」
「複数の軍閥が同時に動きました!」
「帝国軍上層部より、帝国技術開発局及びフェルコルクス駐留部隊へ」
「即時撤退命令が出ています!」
サツキとヒナノの表情が変わる。
対して。
キショウは驚かなかった。
「……そうか」
「そ、それだけですか?」
「他に何を言えと?」
「い、いえ……」
兵士が言葉に詰まる。
キショウが夜空を見上げる。
「崩れるのは随分と早かったな」
そして。
再びサツキを見る。
「聞いた通りだ」
「ここまでだな」
「……逃げるの?」
「逃げる?」
「勝者が戦場を去ることを、逃げるとは言わん」
キショウが笑う。
「俺は軍人だ」
「命令が下った以上、従うさ」
サツキはしばらく黙っていた。
やがて、双剣をゆっくりと下ろす。
「……次は」
キショウを見る。
「その余裕ごと斬ってあげる」
「ククッ」
キショウが楽しそうに笑った。
「期待している」
帝国兵とともに庭園を去っていく。
サツキは、その背中を見続けていた。
姿が見えなくなるまで。
ずっと。
「……行ったよ」
ヒナノが呟く。
「……」
「サツキ?」
返事はない。
「ちょっと?」
ヒナノが顔を覗き込む。
サツキの目が閉じていた。
「サツキ!?」
慌てて身体を支える。
「ちょっと! しっかりして!」
「……うるさい」
「起きてるじゃん!」
「少し……休むだけよ」
「だから無茶しすぎなの!」
「どれだけ出血してるか、わかってるの!」
ヒナノが大きく息を吐く。
そして。
サツキの腕を自分の肩へ回した。
サツキは何も答えない。
ただ、ヒナノへ身体を預けていた――
【第九十五話へ続く】




