【 第四十話】鎮めの夜
〈世界樹外縁・結界域〉
森の空気が重かった。
世界樹へ近づくほど、それは顕著になる。
枝葉は揺れている。
風も吹いている。
だが。
森が呼吸を忘れているようだった。
「……これ、かなり酷いねぇ」
ナナセが足を止める。
目の前には、巨大な結界柱。
白銀色だったはずの樹木型の結界柱が、所々黒く侵食されていた。
根元には、黒ずんだ樹液。
まるで血のように、ゆっくり地面へ流れている。
ヒナノが顔をしかめた。
「うわ……」
「これ、見てるだけで嫌な感じする」
サツキも目を細める。
「魔力が濁ってるわね」
「いや、違いますね」
オボロが静かに樹液へ触れる。
「――これは、“流れ”そのものが傷ついています」
ロゼが悔しそうに唇を噛んだ。
「神焉砲の直撃はエトさんのおかげで防げました」
「しかし、防ぎきれなかった余波が結界に直撃しました」
「……その後からです」
「世界樹周辺の精霊たちが、急に怯えるようになった」
「結界も維持できなくなってきていて……」
木陰から、小さな光が現れる。
淡い緑色。
羽虫のような小精霊。
だが。
その光は弱々しい。
ふらつくように漂い、すぐ樹木の陰へ隠れてしまった。
ヒナノが目を丸くする。
「逃げた?」
「警戒されています」
「……我々、神官でもだめです」
ロゼが小さく答える。
「今の森は、精霊同士ですら不安定なんです」
ナナセは静かに周囲を見回していた。
世界樹。
黒い樹液。
乱れた精霊流。
そして。
――微かに残る、“焼けたような痕跡”。
ナナセの目が細くなる。
「……神焉砲の残滓か」
ロゼが俯いた。
「エトさんの契約精霊も……消えました」
空気が静まる。
ヒナノがゆっくり振り返る。
「精霊も……?」
「はい」
ロゼの声が震える。
「普通なら、契約者が死んでも精霊は自然へ還ります」
「ですが、何も残らなかった」
「痕跡も、流れも、存在そのものが……」
サツキが目を開く。
「そんなこと、ありえるの?」
「本来ならありえん」
答えたのはブレルだった。
森宰である彼も、外縁まで同行していた。
「だからこそ、我々はあの兵器を危険視している」
「精霊を傷つけるだけではない」
「“循環そのもの”を破壊している」
ナナセの視線が、黒い樹液へ落ちる。
「……精霊の力を、無理やり圧縮して撃ってるからかな」
「普通の魔導兵器じゃないからね」
ブレルの目が細くなる。
「詳細を知っているのか?」
ナナセは肩をすくめた。
「詳細は不明」
「でも、帝国の主力船についていたのは鹵獲したから解析中」
「――分かってるのは、“精霊を利用してる”ってことだけだよ」
ブレルの表情が険しくなる。
ラクテアから聞いていた言葉を思い出す。
(彼なら、“今の森”を見れば分かる)
ブレルは静かに息を吐いた。
「……結界柱だ」
「修復できるなら見せてみろ」
ナナセは苦笑する。
「うへぇ……」
「相変わらず信用ないねぇ」
「当然だ」
ブレルが即答する。
「だが――」
その視線が、黒く侵食された結界柱へ向く。
「我々だけでは、もう修復しきれん」
短い沈黙。
それは。
警戒と、認めざるを得ない現実だった。
ナナセは何も言わず、結界柱へ近づく。
黒い樹液へ触れる。
瞬間。
――ビリッ!!
空気が震えた。
周囲の精霊たちが一斉に逃げる。
ロゼが息を呑む。
「ナナセ!」
だが。
ナナセは手を離さない。
藍色の髪が、風もないのに揺れる。
その足元から、静かな魔力が広がった。
「……ポラリス」
『うん』
幼い声がナナセにだけ聞こえるように応える。
次の瞬間。
黒く淀んでいた結界流路へ、淡い光が流れ始めた。
サツキが目を見開く。
「……結界が修復されていく」
「……いえ」
オボロが静かに呟く。
「あれは修復ではありません」
「繋ぎ直しています」
「血管を治さずに、新しい血管を作って繋ぎ直してるイメージです」
ヒナノが息を呑む。
黒く濁っていた魔力が、ゆっくり循環を取り戻していく。
まるで。
止まりかけた血流が、再び動き始めるように。
ブレルの目が鋭くなる。
「……再構築か」
「近いかな」
ナナセが軽く笑う。
「壊れた部分だけ繋ぎ直してる」
「森そのものは、まだ生きてるからね」
その時だった。
逃げていた小精霊が、一匹だけ戻ってくる。
恐る恐る。
ナナセの周囲を漂う。
やがて。
淡い光が、結界柱へ触れた。
――ザァァァ……
止まっていた風が、静かに流れ始める。
葉が揺れる。
黒ずんでいた結界柱の一部から、ゆっくり白銀色が戻っていく。
ロゼが目を見開いた。
「戻ってる……」
「結界流が安定してる……!?」
神官たちの間にもざわめきが広がる。
ブレルだけは、無言でナナセを見つめていた。
警戒。
困惑。
そして。
認めざるを得ない感情。
やがて、彼は低く口を開く。
「……感謝はする」
「少なくとも、今回コンステラを救ったのは貴様だ」
「だが」
「やはり私は、人間へ森の深部を委ねる気にはなれん」
「それに、貴様の精霊魔法は警戒すべきだと再認識している」
ナナセは苦笑した。
「うん」
「それでいいよ」
「僕も全面的に信用されるとは思ってないし」
その返答に、ブレルはわずかに目を細めた。
「……だが」
「感謝する、一人のエルフとして」
ナナセは少しだけ目を丸くした。
ブレルは既にナナセのそばから立ち去っていた。
苦笑いを浮かべてブレルの背を見送る。
「エルフってみんな素直じゃないよね……」
――その夜。
〈世界樹外縁・鎮静祭儀〉
篝火が灯る。
白い衣を纏った神官たち。
鈴の音。
静かな歌。
森全体へ、淡い霊香が広がっていく。
それは宴ではない。
祈りだった。
傷ついた森を鎮めるための、コンステラの祭儀。
ロゼたち神官が歌う。
周囲では、舞手たちが静かに舞っていた。
その動きに合わせるように、小精霊たちが漂う。
ヒナノが目を輝かせる。
「……綺麗」
サツキも目を細めた。
「戦うためじゃなく、“共に生きるため”の文化なのね」
その時だった。
ふわり、と。
小精霊がヒナノの肩へ止まる。
さらに。
別の精霊が、サツキの銀髪へ触れた。
二人は気づかない。
だが。
周囲の神官たちがざわめく。
ロゼが目を見開いた。
「……人間なのに?」
ブレルも無言で二人を見る。
精霊たちは、警戒していない。
むしろ。
嬉しそうに集まり始めていた。
『……面白いね』
ポラリスが小さく笑う。
祭儀の歌が続く。
香が流れる。
舞が巡る。
『……この歌も好き』
『お菓子はいつ出てくるかな?』
「ポラリスの分じゃなくて、この森の精霊の分だよ?」
『……大丈夫、分けてもらうから』
「……目で訴えるのはだめだよ?」
祭儀が進む。
そして。
止まりかけていた森へ、再び風が戻っていた。
――だが。
遠く。
世界樹の黒く染まった枝だけが、不自然に揺れる。
ナナセの目が細くなる。
『……ナナセ』
ポラリスの声。
『まだ終わってないね』
戻った風が、静かに森を揺らしていた。
【第四十一話へ続く】




