【第百二十七話】終われない魂
〈百年前・???〉
――どれほど、時間が経ったのか。
分からない。
何も見えない。
何も聞こえない。
身体の感覚すら存在しない。
「……」
声を出したつもりだった。
だが、聞こえない。
ここは、どこだろう。
自分は、何をしていた。
考えようとして。ようやく気付く。
(あぁ――死んだのか)
不思議と恐怖はなかった。
むしろ、安堵した。
やるべきことは終えた。
どこで何をしたのかは思い出せない。
それでも、終えたという感覚だけは残っている。
これで……もう――
『――やあ』
「……!」
知っている声がして、オルフェウスは声の主を探す。
『久しぶりだね、オルフェ』
「……ペルス」
闇の中に、ゆっくりと一人の男が姿を現した。
人間のようで、人間ではない。
精霊のようで、精霊でもない。
あの日と変わらない笑みを浮かべている。
「……どうして」
『どうしてって?』
ペルスが首を傾げる。
『君に会いに来たんだよ』
「僕は……」
『うん』
楽しそうに笑う。
『死んでるね』
「……」
『ちゃんと、僕にも分かるよ』
ペルスが近付いてくる。
逃げようとして、オルフェウスは気付く。
身体がない。
動くことすらできない。
『そんなに警戒しなくてもいいのに』
「……何の用だ」
『忘れた?』
「……」
『僕、ハーデスを助けたよ』
『依頼通りにね』
オルフェウスの意識が揺れた。
兄――ハーデスを、最後に見た姿。
自分が刺した、兄の身体。
そして。
『兄さんを助けてくれ』
自分が、確かに頼んだ。
『だからさ』
ペルスが手を差し出す。
『報酬を貰いに来たんだ』
「……報酬」
『そう』
『契約には見返りが必要だからね』
ペルスは嬉しそうに頷いた。
『君、持っていったでしょう?』
「……何を」
一瞬。
ペルスの笑みが深くなった。
『精霊の涙』
「……?」
『どこへやったの?』
オルフェウスは答えなかった。
いや、答えられなかった。
「……何を言ってる?」
『うん?』
「知らない」
『……』
初めて、ペルスが黙った。
『知らない?』
「……ああ」
『君が持っていったのに?』
「そう……らしいね」
オルフェウスは小さく笑った。
「でも」
「……僕には分からない」
『……』
ペルスの手が伸びる。
そして、オルフェウスの魂へ触れた。
「っ……!」
記憶が、乱暴に捲られていく。
『……へえ』
ペルスが呟いた。
『……ない』
「……」
『いや、違うな』
ペルスの目が細くなる。
『閉じたんだ』
「……」
オルフェウスは痛みに耐えながら笑う。
「よく思い出せないけど、――うまくいったみたいだね」
『……』
「君が来るとは……思ってなかった」
一度、息を整えるように間を置く。
「ただ」
ペルスを見る。
「来ても大丈夫なようにはした」
数秒、沈黙が落ちた。
そして。
『――あはっ』
ペルスが笑った。
『面白いなぁ』
怒っていない。
むしろ、楽しそうだった。
『なるほど』
『だから、こんなにも早く死んだんだね』
『ネズミみたいにこそこそと生きると思っていたのに』
「……」
『自分でも知らなくなれば、捕まっても喋れない』
「そういうこと」
『死んでも?』
「……念のためね」
ペルスが、ますます楽しそうに笑う。
『正解』
「……」
『君、死んでも逃げられなかったね』
オルフェウスは答えない。
だが。
精霊の涙は守れた。
それだけで十分だった。
「……よかった」
『何が?』
「君が知ることができないなら」
小さく笑う。
「――僕の勝ちだ」
ペルスが目を細める。
『そうだね』
『この報酬については』
「……?」
『困ったなぁ』
ペルスは、本当に困っているような口調で言う。
『僕はハーデスを助けた』
『君に頼まれたから』
『だから、報酬を貰えると思ってたんだけど』
『君から情報を貰えない』
一歩、ペルスが近付く。
『言ったよね』
『契約には見返りが必要だと』
オルフェウスの魂へ、その手を伸ばす。
『別のものを貰わないと』
嫌な感覚が、オルフェウスの中を走った。
「……何を」
『決まってるでしょう?』
ペルスが笑う。
『――君』
「……!」
逃げようとする。
だが、動けない。
黒い何かが、オルフェウスの魂へ絡み付いた。
「っ……!」
『情報が報酬として貰えないなら』
一本。
また一本。
鎖のようなものが、魂を縛っていく。
『代わりに』
ペルスが楽しそうに告げた。
『君の魂を貰うよ』
「……ふざ、けるな……!」
『ふざけてないよ』
『報酬は必要でしょう?』
「そんなもの……!」
『それに』
ペルスがオルフェウスの顔を覗き込む。
『君を持っていれば』
笑みが深くなる。
『いつか思い出すかもしれない』
「……!」
『その時に、改めて教えてもらえばいい』
魂へ絡み付いたものが、さらに強く締まる。
ペルスが笑う。
『時間なら、いくらでもあるからね』
闇が、オルフェウスを呑み込んでいく。
死んだはずだった。
これで終われるはずだった。
精霊の涙を守り。
フィラを生かし。
自分の命を使って。
すべてを終わらせるはずだった。
けれど。
終わらなかった。
『これからよろしくね』
最後に、ペルスの声だけが聞こえた。
『――オルフェ』
その日、一人の薬師の生涯は終わった。
だが。
その魂に訪れるはずだった終わりだけは。
許されなかった――
【第百二十八話へ続く】




