【第百二十六話】最後の封印
〈百年前・港湾都市シドー・領主邸庭園〉
――夕方。
子どもたちと別れたオルフェウスは、再び領主邸の庭園へ戻っていた。
東屋に腰掛け、一人で海を眺める。
海から吹く風が髪を揺らす。
「……疲れた」
「みんな元気すぎるよ」
思わずそんな言葉が零れた。
何日、まともに眠っていなかったのだろう。
腹部の傷も、身体の疲労も限界に近い。
それでも、やるべきことは終わった。
精霊の涙は封じた。
鍵も手元にはない。
フィラもラクテアも、ここを知らない。
あとは、最後の一つ。
オルフェウスは革鞄を開き、奥から一本の小さな薬瓶を取り出した。
透明な液体が夕陽を受けて揺れる。
“忘却薬”。
それを作ったのは、シドーへ来てからではなかった。
――フィラのもとを去る前。
あの夜、ラクテアとの会話を終えたあと。
眠るフィラを見つめながら、
オルフェウスは一つの可能性を考えていた。
――ペルス。
あの存在は、なぜ自分を追わなかったのか。
なぜ、精霊の涙を奪わなかったのか。
ペルスが何者なのか、今も分からない。
だからこそ、最悪を考えた。
もし、自分が捕まったら。
もし、記憶を読む術を持っているとしたら。
もし、死んだ後ですら、それが可能だとしたら。
なら、答えは一つだった。
――自分自身が、知らなければいい。
そのために、二つの薬を作った。
一つは、記憶を閉ざすための薬。
そして、もう一つは――
「……フィラ」
オルフェウスは小さく笑った。
彼女のもとへ、手紙と一緒に残してきた薬瓶。
あれは、この薬によって閉ざした記憶を再び開くためのものだった。
もしかしたら、命を懸けなくてもいいかもしれない。
もしかしたら、また会えるかもしれない。
だから、一つだけフィラへ残した。
もちろん、何の薬なのかは書かなかった。
それを知る者が増えれば意味がない。
「……もしかしたらなんて、甘すぎるよね」
オルフェウスは薬瓶を見つめ、栓へ指を掛けた――
〈百年前・港湾都市シドー・旧領主邸庭園〉
小さな音とともに、薬瓶の栓が外れた。
オルフェウスは中の液体を見つめる。
これを飲めば、精霊の涙をどこへ隠したのか。
どんな術式を使ったのか。
鍵を誰へ預けたのか。
その記憶は、自分の中から失われる。
正確には、消えるわけではない。
薬によって、記憶へ至る道を閉ざす。
だが、自分一人では二度と開くことはできない。
「……」
怖くないと言えば、嘘になる。
それでも、迷う時間はもう終わっていた。
オルフェウスは顔を上げる。
東屋の向こうには、夕陽に染まった水平線が広がっていた。
「……綺麗だよ」
「フィラ」
隣に誰もいないと分かっているのに、小さく笑った。
「いつか」
「今度は、二人で」
薬瓶を口元へ運び、一息に飲み干した。
「……っ」
苦い。
喉の奥が焼けるように熱くなる。
次の瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
額を押さえる。
脳裏に、いくつもの光景が浮かんだ。
地下へ続く階段。
白銀の扉。
台座。
精霊の涙。
石壁へ刻んだ言葉。
一本の鍵。
その一つ一つが、霧の向こうへ沈んでいく。
「……」
何かを忘れている。
ついさっきまで、確かに知っていたはずなのに。
どこに、何を残したのか思い出せない。
「……成功、かな」
小さく笑う。
忘れたことだけは分かる。
けれど、何を忘れたのかは――もう分からない。
それでいい。
オルフェウスは東屋の柱へ身体を預けた。
「……フィラ」
その名前は覚えている。
顔も。
声も。
笑い方も。
怒った時に頬を膨らませることも。
初めて会った日のことも。
二人で交わした約束も。
すべて残っている。
消したかったのは、彼女との時間ではない。
守らなければならないものへ至る道だけ。
「……よかった」
安堵するように、オルフェウスは目を閉じた。
だが、まだ終わりではなかった。
最後の術式が残っている。
封印を、自分が死んだ後も残すために。
ただ魔力を注ぐだけでは足りなかった。
魔力だけで組んだ封印なら、術者が死ねばいつかは綻ぶ。
百年。
二百年。
その先まで残すには、足りない。
なら、術者が死んでも残り続けるものを使えばいい。
――魂。
――生命。
コンステラの古い魔導書に記されていた術式。
生命そのものを代価として、術式を世界へ定着させる。
本来なら、決して使うべきではない禁術。
「……ごめんなさい」
ハルモニアへなのか。
ラクテアへなのか。
フィラへなのか。
それとも、自分自身へなのか。
もう分からなかった。
オルフェウスは両手を組み、目を閉じる。
そして、最後の術式を紡いだ。
足元から淡い光が広がっていく。
東屋を包み、庭園へ。
さらに、地下深くの白銀の扉へ。
自分にはもう思い出せない場所へ、光が届いていく。
身体から、何かが抜けていく。
魔力とは違う。
もっと深い。
自分という存在そのものが、少しずつ削られていく。
「……」
怖い。
それでも、オルフェウスは術式を止めなかった。
やがて、指先から感覚が消えた。
足も、もう動かない。
呼吸が浅くなる。
心臓の鼓動が、ゆっくりと遠ざかっていく。
オルフェウスは最後の力で顔を上げた。
海を見ると、遠くでクジラが跳ねていた。
「……フィラ」
「君が見たがっていたものは……全部ここにあるみたいだよ」
僅かに笑みを浮かべる。
「約束……」
「忘れてないから」
視界が暗くなる。
それでも、最後まで海だけを見ていた。
いつか。
二人で見るはずだった海を。
そして。
オルフェウスの身体から、静かに力が抜けた――
【第百二十七話へ続く】




